徳川期の富の余剰について
■徳川はパラダイスか?
徳川期をパラダイスのように言うのは拙速であり、愚劣である。しかし、徳川期に悪徳があったとしても、同時代の西欧強国の市民社会にもそれに匹敵する人間的悪徳は腐るほどあったであろう(註1)。徳川期の肯定的な点を指摘すると、そのリアクションとして暗黒面を言い募るの向きがいるのは、平衡感覚があるようにみせかけて、その実、明治期近代賛美の片棒を担ぐ魂胆がほのみえる。
■閑としての余剰
余剰は、物的消費としてのみ現れるわけではない。それは社会全体として、「労働しないこと」=「余暇、ひま」としてもあらわれる。一人当たりのひま時間、でもあり、社会全体としての暇人(ボヘミアンなど)の活動でもある。
■庶民の旅
天明の大飢饉(1783,86)の十年前において、安永2年(1773)5月25日から85日間(一年の四分の一)のお伊勢参りツアーに出たのが、その大飢饉で打撃を受ける寒村であろうとイメージされる、陸奥国白川郡宝坂村・小百姓九人という記録がある。彼らは、讃岐の金比羅さんや丹後の天橋立にまで足を延ばしている。彼らも寄った熊野三山詣での結節点である田辺には、年間参詣客が毎年10万人以上宿泊した。
■武士の《労働》
閑なのは、当り前だが武士もそうである。
万延元(1860)年。紀州和歌山藩の勤番侍が、江戸に単身赴任した際書き記した日記があるが、それによると、勤務は午前10時(まれに8時)から正午まで、月平均10日ほど。つまり三日に一日しか勤務がなく、それも午前中の2、3時間だけ。おそらく領地での勤務も似たり寄ったりだっただろう。インテリ下級武士(例:大田南畝)が文化のクリエーターになれたのは当り前だ。それはオランダ海軍士官カッテンダイケがその「長崎海軍伝習所の日々」 (東洋文庫(26)において、侍たちが閑であり、することといったら酒色ばかりと非難していることとも符合する。だからこそ、立身出世を渇望する野心のある閑な不穏分子は過激派にもなりやすい。
■徳川期のリアリティ
我々の徳川期の像は、相当程度歪んでいて、徳川期のリアリティは、「システム」の歴史担当管理者である、帝国大学国史科(明治人お手製)の繰り返し創出する「江戸時代像」にマインド・コントロールされたままである蓋然性が高いと、用心したほうがよい。
(註1)さしあたり、下記を参照。
西欧におけるphallocracyの実態1(追記20180409)
西欧におけるphallocracyの実態2(追記20180409)
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コメント
りくにす様
>「近代化」は実は「北米化」ですか。ヨーロッパにばかり目が行っておりました。そういえば私もアメリカ系のミッションスクールに厄介になっておりました。
そうですね。井上ひさしがカトリック系の孤児院で育ったのは知られていますが、そこもカナダ系のカトリック修道会経営でした。
>自由思想家たちは新大陸の先住民の社会のありかたに衝撃を受けたそうで、それで「自然状態」などを考察した…
仏語のBon sauvage(善良なる野蛮人)などが、それですね。宗教改革後、カトリックの宣教師(イエズス会、ドミニコ会など)が世界中を宣教してまわりますが、中南米などに入った文字通りMissionたちは、インディオの生活ぶりをみて、そういった訳です。いわゆるユートピア文学やらユートピア思想(モア、初期社会主義などもそう)が16、17世紀に澎湃するのも、それが引き金です。ルソーや、啓蒙思想家たちの自然状態の想源もそれです。
明治文化の北米起源については別途記事化します。
投稿: renqing | 2014年4月 7日 (月) 13時31分
ご返答ありがとうございます。
「近代化」は実は「北米化」ですか。ヨーロッパにばかり目が行っておりました。そういえば私もアメリカ系のミッションスクールに厄介になっておりました。そのアメリカが独立できたのはイギリスを負かすためにルイ16世が軍事介入したおかげであり、そのルイ16世はちょっと自由思想にかぶれていたそうです。その自由思想家たちは新大陸の先住民の社会のありかたに衝撃を受けたそうで、それで「自然状態」などを考察した…あたりはぼんやりした輪郭として存じております。
>(過去を持ち得ないことからくる)無から有を作り出せるという傲岸さ
ルイ16世の恩は忘れられていないようですが、「誰のおかげで大きくなれたんだ」状態ですね。
今後も楽しみにしております。
投稿: りくにす | 2014年4月 4日 (金) 19時48分
りくにす様
コメントありがとうございます。
我々の眼前に繰り広げられている、かつて至上の目標だった modernity は、西欧で誕生した様々なobjects (成長パラノイア、石炭・石油文明、etc.)が北米合衆国において最終的に統合され、その北米合衆国自体を範例とするものです。旧ソ連においてさえ、トロツキーの理想は、American way of life でした。
そして、明治日本の欧化とは、その実、西欧化というよりは、北米化でした。徳川体制の瓦解の発端になったのは、ペリー来航でしたし、来日して活発に活動したプロテスタント系の宣教師はほぼ例外なしに北米系のものです。明治時代の(私費)留学生は殆んど北米を目指し、USA的なものを身に付けて帰国しています。内村鑑三などもその口です。
この北米合衆国に巣食うカルチャーが、(過去を持ち得ないことからくる)無から有を作り出せるという傲岸さです。PCを生み出した、かつての、Xeroxのパロアルト研究所の壁には、こう書かれていたそうです。「未来を予言する最良の方法は、未来を作ってしまうことだ」
この《現代のローマ帝国》=北米合衆国の呪縛から心身ともに離脱できないうちは、別種の、そして一つの実在した modernity として徳川期を見る視点は構成されないのだろうと思います。
投稿: renqing | 2014年4月 2日 (水) 07時00分
>徳川期の肯定的な点を指摘すると、そのリアクションとして暗黒面を言い募るの向きがいるのは、平衡感覚があるようにみせかけて、その実、明治期近代の賛美の片棒を担ぐ魂胆がほのみえる。
私は『ほんとうは怖い江戸時代』の八幡和郎氏を想起いたしましたが、「江戸幕府は朝鮮と仲良くするダメ政権」とみる向きもあるようです。
あるいは、江戸時代の時間的文化的余裕を思い出されると困る方々もいるのでしょう。
明治以降、というか19世紀以降はいわく言い難い貪欲さがあってなんだか嫌いです。
投稿: りくにす | 2014年4月 1日 (火) 21時46分