明治の立身出世主義の起源について(3)
「成功哲学」。この言葉に最もしっくりくる国民は日本人以外では誰か。
無論、米国人である。故国イギリスの宗教的迫害を逃れ、「新世界」を求めたピルグリム・ファーザーズ。そこに身分制を含む旧世界文明を清算し、「現代のローマ帝国」を建設しようとした建国の父たち。
彼等は旧世界の身分制を一掃した瞬間、自らの予定されている神の祝福を現世で確信するために、不安な魂を慰めるfictionをでっち上げる必要が出てくる。それが彼等の現世での「成功」だ。米国人の言う Democacy が meritocracy(一種の立身出世主義)の一変種に過ぎないと喝破したのは Max Weber だった。
そして立身を渇望する元Young Samuraiの私費留学生の行く先はほぼ米国であり、東洋の「新世界」Japanに布教のチャンスを求めたmissionariesは皆、北米系だった。その好例が、内村の札幌バンドであり、熊本バンド、横浜バンド、いわゆる三大バンドである。明治のYoung Japan は、19世紀中葉のYoung America を西洋文明の範例として自己同一化に狂奔したことになる。それは期せずして両者のメンタリティが共鳴した帰結だ(「選択的親和性」の好例)。「白人」や「ガイジン」を見ると、「米国人」だと信じて疑わないのは、戦後日本人だけの専売特許ではない。
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コメント
りくにす 様
コメントとともに、参考文献のご紹介ありがとうございます。ご紹介の、
礫川全次著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)
につきましては、既読です。書評記事につきましては、食指が動かなかったため書かなかった経緯があります。なぜ、食指が動かなかったか、と言えば、このシリーズ(4)
https://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2015/07/post-5b0c.html
に書きました通り、現在の私の理解では、Max Weberの立論は、misleadingだと判断しているためです。率直に申し上げて、Weberの立論の正しさを前提にしたこの手の議論は《資本主義論》としては既に有効ではない、と思います。我々が彼の自己救済につきあう義理はない、と。
ただし、念のため申し上げますと、Max Weberの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という問題設定(議論の構成)が無効だと考えているだけで、彼の積み上げた膨大な個々の議論、分析道具、はまだまだ使い道が幾らでもあると思います。幾ら世紀を代表する天才学者と言えども寸分の狂いなく真理のみを残すことは「神」ならぬ人間の身、不可能ですから。彼の「支配の三類型」でさえも、Weberの学統に属するドイツの国制史・概念史の学者から根本的な批判も出ているくらいです。それが学問の進歩なので当然でもあります。
私にとって切実な問題は、我々の時代の運命、我々を乗せてダッチロールしている資本主義というタイタニック号の運命を知ることで、Max Weber の学問的運命を知ることではありません。なぜか世間には、Max Weber親衛隊と彼を全否定して悦に入っている方々が少なからずいて、私からすれば、幸せな御仁だと羨望するばかりです。
投稿: renqing | 2015年7月 7日 (火) 12時33分
「代替案のための弁証空間」から参りました。遅ればせの横レスお許しください。
あ*様のおっしゃる「江戸末期の田舎の勤勉さ」についてですが、礫川全次著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)の前半では日本人にも勤勉な人とそうでない人がおり、勤勉の陰に浄土真宗があると指摘しています。
ブログ「礫川全次のコラムと名言」(本を読んだ方が早いですが)
http://blog.goo.ne.jp/514303/e/fa5482bb6c500e02b529938abf2aba41
カルヴァン派と浄土真宗には「人は無力であり、救いは神(仏)の側から一方的に来る」という共通点があります。親鸞やカルヴァンほどに覚りきれない衆生は救われる者である証しとして勤勉さを見せることになったといわれます。救われない予定の人は初めから分かるはずで、それは怠惰さだというわけです。劣等生が勉強する気をなくすようなものだ、と乱暴に要約してはいけないとは思いますが。
江戸時代に勤勉だった人々と明治以降立身出世に励んだ人々が重なっているかどうかは不勉強なのでわかりません。
投稿: りくにす | 2015年6月26日 (金) 17時56分
あ* 様
私のレスもミスリーディングでしたが、あ* 様のコメントも当初の内容からどんどんズレております。
とりあえず整理しておきます。
6/18(木)の貴コメント内容
「純日本人が持つ勤労の精神が何故プロテスタンティズムと親和性があるのか説明できない」
私は本記事で、日本人の勤労精神には触れておりません。したがって、それとプロテスタンティズムとの親和性の有無に類することも申し上げておりません。また、記事中で取り上げた「選択的親和性」の概念は、M.Weber 特有のものでありまして、一般的な「親和性」とは違います。これをご理解いただけるように説明するには別の記事を書く必要があります。いまは、詳説を避けます。ご関心があるようなら、
歴史における発生と定着、あるいはモデルと模倣
https://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2010/01/post-47f4.html
をお読み頂ければ幸いです。
6/19(金)の貴コメント内容
「「現世における、自己の地位と価値の他者からの承認への激しい欲求」というものが、そもそも病的(PTSD症状)ではないか」
はい、ご高説の通りだと思います。それが米国人なのです。したがって、彼らは大抵かかりつけの精神科医を有しています。
また、この貴コメントの、「なぜならば」から「正当防衛が必要になるだけでしょう。」まで、論旨がうまく読み取れません。
加えて、「個人の人生を軸に考えれば、」から「「勤勉エートス」なんてありません。私らは庶民ですから。」の部分は、論旨はたどれますが、いったい誰への応答なのか不明です。
誠に恐縮ですが、これ以上弊記事内容とズレるコメントを頂くようなら、書き込みをご遠慮願えませんでしょうか。ご検討ください。
ブログ主
投稿: renqing | 2015年6月20日 (土) 02時28分
お返事ありがとうございます。
「現世における、自己の地位と価値の他者からの承認への激しい欲求」というものが、そもそも病的(PTSD症状)ではないかと私は思いました。なぜならば、普通に生きていれば良いじゃないですか? ダメなのですか? 生きていくのに「自己の地位と価値の他者からの承認」を欲求する必要は初めからありません。DV親父が「お前ら殺してやる」と言って現実に刃物を振り下ろしてきたら初めて正当防衛が必要になるだけでしょう。
個人の人生を軸に考えれば、普通に働いて、外的な要因から現ナマが必要な時は必要に応じて奮闘して現ナマを獲得し、そうでないときは「まあまあ食べていければいいがな」と生きながらえて個人の人生を享受して「めでたし、めでたし」なのであって、「勤勉エートス」なんてありません。私らは庶民ですから。
投稿: あ* | 2015年6月19日 (金) 08時43分
あ* 様
コメントありがとうございます。
ご指摘の件と本記事内容は異なっております。
本記事で触れているのは、「立身出世主義」ないし「成功哲学」です。これは、あ* 様のおっしゃられている「勤労の精神」とは全く別ものであります。資本主義を立ち上げ、駆動するものは、「勤労の精神」などという麗しい代物では金輪際ございません。現世における、自己の地位と価値の他者からの承認への激しい欲求です。
「前近代」の身分制は、その内部にいるものにとって、貴賎に限らず、身分status(「地位と価値」)を承認するものでした。「近代」が身分制を清算すると、自己の地位と価値を自ら証明せざるを得ません。個々の人間のそのような欲求を社会的に集計したもの、これこそが「成長パラノイア」に他なりません。
徳川中後期に庶民の中に「勤勉エートス」は存在していたと私も考えますが、それは資本主義を決して生み出さなかった、これが歴史的事実です。Max Weber は、その生涯をかけていったい何を証明しようとしてたのか。それは彼自身の病と関連すると考えたほうが整合的だと思われます。
投稿: renqing | 2015年6月19日 (金) 03時54分
「東洋の「新世界」Japanに布教のチャンスを求めたmissionariesは皆、北米系」というのは、明治維新以後の話ですね。
先生のご説では、私の曽祖父(江戸末期〜昭和初期)のように、ど田舎で生まれ育った純日本人が持つ勤労の精神が何故プロテスタンティズムと親和性があるのか説明できないような気がするのですが、どうなっているのでしょうか?
投稿: あ* | 2015年6月18日 (木) 14時16分