対馬と琉球、その近世日本における国際関係
このうち、対馬を介した朝鮮と日本の関係は、ほぼ対等な国家間の外交と言ってよいものであった。近世を通じて、前後十二回、朝鮮から使節が訪れ、その際には、朝鮮国王と日本大君(徳川将軍)との間に、対等な書式の国書が交わされたのである。(続く)
例えば、対馬の宗家は江戸に参勤する大名であったが、朝鮮にも半ば従属していた。釜山に毎年何度も船を送り、貿易するが、使いはその際、必ず朝鮮国王の位牌に拝礼した。朝貢に類した儀礼を行っていたのである。日本にしっかり組み込まれていたとはいえ、対馬は東南アジアの小国のように二重の従属関係を持っていたのである。また、朝鮮国王と日本大君との関係を見ると、朝鮮の使節は大君の代替わりを機に日本を訪れるが、大君は答礼の使節も朝鮮国王の代替わりの祝賀使節も送らない。日本側はこの通信使を朝貢使と見なしたが、朝鮮側はかつて侵略を受けた「夷狄」の実情を偵察する機会と考え、日本国内を「巡視」と記した旗を揚げて行進した。さらに、「大君」という称号は朝鮮では国王の王子つまり臣下に与える称号であったが、日本側は「大君」と「国王」が対等な国書を交わす以上、「大君」の上にある「天皇」は「国王」の上にある「皇帝」と対等である、つまり日本は中国と対等であり、朝鮮より上にあるのだという解釈を行った。すなわち、近世の日朝関係は、互いに相手側の蔑視を知りながら、それを容認している関係、いわば等号ではなく、逆向きの不等号を重ね、結果として対等性が生じている関係であった。これは二百年近くも維持されたが、十八世紀末には双方で不満が高まり、変更されることとなる。
三谷博/山口輝臣『19世紀日本の歴史―明治維新を考える』 (放送大学教材 2000年)、放送大学教育振興会、PP.28-29
次に、琉球は、清の冊封を受ける王国でありながら、実際には島津家に支配されていた。二年に一回福州に朝貢船を送る一方、江戸に対しても将軍の代替わりに慶賀使、国王の代替わりに謝恩使を、島津家にともなわれて江戸に送っている。日清への両属という姿は、対馬にも共通する点があるが、琉球の場合は、両属の相手が中国であり、国王の江戸参勤がなかった分、日本からの独立性がより高かった。また、日本側も、十八世紀には、琉球の使臣にことさらに清国風の装いをするよう求めている。日本の一部と見なすより、琉球という「異国」を支配下に置いているというイメージ、日本を小中華と見なすことを重視したからであった。日本であって、日本でない。日本に従属しているが、それは薩摩次第である。この曖昧な地位は、幕末に琉球が西洋による支配の第一候補となったとき巧妙に利用されることとなる。
以上の二か所(対馬、琉球)は、日本の政府からは、異国との境界領域、特に中国への情報と貿易の通路として位置づけられていた。
三谷博/山口輝臣『19世紀日本の歴史―明治維新を考える』 (放送大学教材 2000年)、放送大学教育振興会、PP.29-30
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