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2017年3月 3日 (金)

国民詩人って誰?/ Who is the national poet?

 昔、評論家のS氏が「日本には国民文学、国民詩人と称すべきものがいない。」と、私的な会合で弁じていた。

プーシキン(ロシア)/ Александр Сергеевич Пушкин/Aleksandr Sergeevich Pushkin
シェークスピア(イングランド)/ William Shakespeare
ムーア(アイルランド)/ Thomas Moore
ユーゴー(フランス)/ Victor Marie Hugo
ゲーテ(ドイツ)/ Johann Wolfgang von Goethe
カルドゥッチ(イタリア)/Giosuè Carducci
ホイットマン(アメリカ)/ Walt Whitman
タゴール(インド・ベンガル)/ Rabīndranāth Tagore(Ṭhākur)

とか。ほとんど、翻訳でさえ読んだことがない。( ̄Д ̄;;

 人口に膾炙しているという意味では、芭蕉の「古池や~」は義務教育を修了している日本人なら誰でも知っているだろうが、その詩を口にすると、体の中から熱いものがこみあげてくる、なんていうことは、芭蕉でも金輪際あり得ない。だから、「国民詩人」が日本にはいない、という評は当たっていると思う。

 しかし、漢文脈で、「民主」が、「民主」or「民主」の二通りがあるように(後者の使用例は春秋時代からある)、「国民詩人」も、「国民詩人」ではなく、「国民詩人」と考えれば、まさに、日本は俳句・俳諧、短歌のおかげで「国民詩人」であり、「国民詩人」は不要なのだと思われる。

 なにしろ、先年87歳で物故した老母も、認知症が目立つ前の、80前後までは、折に触れて感じたことを三十一字(短歌)にメモ書きしていて、私が訪ねると、読め読めと、うるさいことこの上なかった。与謝野晶子と昭和ムード歌謡を足して二で割ったようなものだったので、「あ~、またかい」とまじめに読んだ例(ためし)がなかったが。天国の母上、ごめんなさい。ちなみに、亡母は辺境の島育ちで、戦前の高等小学校しか出ていない。

 辺境の地の、uneducatedな女・子どもが、詩を書く趣味を持つ、これが日本の pop cultureの底力、というか日本語の力なのだと今、つくづく思うのだ。

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