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2017年5月19日 (金)

鎌倉時代に「鎌倉《幕府》」は存在しない

 「江戸《幕府》」や「徳川《幕府》」なる語彙が当事者たちの自称ではないことは勿論、当時の第三者からの呼称でもなく、徳川19世紀中頃における政治的意図が込められたものであったことは、弊blogでも幾度か記事化した(本記事末尾、参照)。すると当然、「鎌倉《幕府》」なる語彙を使った鎌倉時代人たちも皆無であろうと容易に推測できる。以下はそれに関連するevidence の二例。

国史大辞典 第3巻 か(吉川弘文館)より
「鎌倉幕府かまくらばくふ」上横手雅敬 筆
 十二世紀末、相模国鎌倉を本拠として成立した武家政権。元来中国の古典では出征中の将軍の幕営を幕府とよび、日本では近衛府、近衛大将、その居館などを意味した。『吾妻鏡』では文治五年(一一八九)六月五日条に、
「江大夫判官公朝、為仙洞御使、参向之由、相触因幡前司、因州先令請家中、参幕府
とあるのが初見である。江戸時代後期以後は、征夷大将軍を首長とする政権をも幕府とよぶようになったが、学術上の概念として「鎌倉幕府」が用いられ始めたのは、明治二十年(一八八七)ごろからである。

石井進『鎌倉幕府』(日本の歴史7 中公文庫1974年)、P.200より
 だが実は、学者の間でも幕府の成立はいつなのか、多くの説が対立しており、今日でもまだ決着がついていはいないのだ。なぜなら、ある日、あるとき、頼朝がおごそかに鎌倉幕府の成立宣言を読み上げたことなど一度もなく、そもそも当時、「鎌倉幕府」ということばが存在しなかったからである。「鎌倉幕府」とは、けっきょく、江戸時代以後の歴史家が名づけ、つくり出した歴史学上の概念である。

※参照
日本史学における概念史の嚆矢

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