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2017年5月 7日 (日)

テロリズムのエートス

以下、国史大辞典(吉川弘文館)の「原市之進」の項にこうある。

「文久元年(一八六一)五月東禅寺事件が起って幕府の攘夷派への圧力が強まると、大橋訥庵らとともに老中安藤信正の要撃を謀議した。」

原は、昌平黌に留学した、水戸徳川家で嘱望されたエリートだ。その一方で、会沢正志斎に学び、従兄の藤田東湖にも師事した。後には、慶喜の懐刀として慶喜が徳川宗家を継ぐと「幕臣」目付となり、開国政策を推進することなるが、その彼でさえ、テロリストになる寸前だった過去を有した。

水戸学の特質だけなのか、それともイスラム過激派テロを連想させるような(アルカイーダなどのテロ実行犯は欧米留学している知的エリートを含む)、社会学的(人口学的)文脈なのか。

攘夷派と公儀派のセクト間の暗闘は、水戸徳川家だけでなく、長州毛利家や薩摩島津家ででさえ(関良基氏の近著を参照)、この時期どこの家中でも噴出していた。またそれぞれに過激派と穏健派がいて、水戸徳川家など複雑怪奇だ。原暗殺の下手人は水戸尊攘過激派だった。

西方キリスト教内部での最大のセクトは、ローマ教会と改革派諸教会だが、ローマ教会はその内部にも多様な会派はありつつ、教皇の下に統一性を保っている。一方、改革派諸教会は教義の微妙な違いで分裂し独立した教会組織になった。

マルキシズムもその内部のセクト主義は満天下に明らかで、過激派の敵に対するその凄惨なテロリズムは19世紀の長州テロリズムと酷似している(関良基氏の近著を参照)。

テロリズムの思想というよりは、テロリズムのエートスの解明が必要なのだろう。

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コメント

足踏堂さん

長薩の密貿易の件は、中国史家・宮崎市定のものです。「長州史観左派/右派」は、弊ブログでも取り上げた、関良基氏の著作『赤松小三郎ともう一つの明治維新』からの流用です。

宮崎市定の議論はあまり知られていないので、近々に弊ブログで取り上げるつもりです。ただ、そのevidenceが少々、不明瞭なので、自分でも関連データを探索中でもあるのですが、いわば「裏経済」「闇のGDP」なので、現代でもそういう研究ほとんど見つかりません。関連資料が闇から闇へ廃棄されている可能性もありますが。

投稿: renqing | 2017年5月26日 (金) 00時50分

なるほど、それは鋭いご指摘。
その理屈を敷衍すれば、攘夷を言っていた彼らが、権力を手中におさめると、開国(公然とした「抜け荷」の独占)に舵を切ったわけがわかりますね。
長州左派のくだりも流石のご指摘ですね。

投稿: 足踏堂 | 2017年5月25日 (木) 09時37分

足踏堂さん

長州毛利家や薩摩島津家内部の尊攘過激派のテロリズムの裏面には、「鎖国」によって莫大な利益を得てきた両家の「抜け荷(密貿易)」問題が隠蔽されています。長州は朝鮮貿易、薩摩は清国貿易。彼らの藩国家主義(藩エタティズム)からすれば、攘夷は「合理」的なわけです。

また、長州の「招魂」観念には、朝鮮儒教の影響の可能性もかなりあります。

マルクス主義史学は、「唯物論」なのだから、長州や薩摩の「倒幕」運動の「唯物論」的基礎を率先して研究すべきだったのですが、彼らは、「事実(to be)の僕」ではなく、「マルクス主義(ought to be)の僕」だったため、結局、「維新の大業」を神輿に担いで練り歩く「長州史観」に回収され、長州右派(PMアベ他)とともに「長州左派」として同じ隊列を組むことになりました。

投稿: renqing | 2017年5月22日 (月) 12時12分

ご無沙汰しております。
意欲的なご論考が続いていて、目がさめるようです。
これも射程の広い問題ですね。
室町後期なども似ているでしょうか。既存秩序の崩壊期に何度も繰り返されてきた、なんて簡単にまとめられるかはわかりませんが、「現在」をみると、思想的備えが必要だなぁと感じます。

投稿: 足踏堂 | 2017年5月22日 (月) 09時11分

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