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2017年5月27日 (土)

入り婿はきかずに抜いて叱られる

 表題は、『誹風末摘花』からのもので、これは徳川十八世紀後半から十九世紀初めに成立した四巻のエロ狂句集である。

冥土では生きる々と大よがり

なんてのもある。

「末摘花」はベニバナの異名だが、

1)初代川柳の万句合摺物から〈末番(すえばん)句(ばれ)〉だけを抜いたもので,末番の花を摘み集めた、というオシャレな命名、

2)『源氏物語』の第六帖(源氏の中の唯一の醜女、ただし源氏に長く愛された)、

という、二重のミメーシス(mimēsis)が仕掛けられている。

 長薩のイモ政権は、主導するイモ文化政策の下で、西欧人の「野蛮vs.文明」というエピステーメー(epistēmē)をこれ幸いと盗用し、徳川 ⇒ ご一新 ⇒ 明治の御代、に「野蛮から文明へ」という構図を当て嵌めた。

 したがって、エロ物語としての源氏を、イモたちが「文学」に祭り上げたため、現代の我々にはこういう猥雑でオシャレな滑稽さを楽しむ知性が鈍磨しがちだ。「悲しみ」は直接胸に響くが、「滑稽」は頭脳を介さざるを得ないからである。笑い飛ばすことも批判的知性の重要な働きだろう。

 ネット上で、当該の「末摘花」から秀句(?)を拾ってくれているサイトがある。ご関心があればどうぞ。

末摘花

 ちなみに、私が表題の傑作を知ったのは、謹厳実直(そう)な、

家永三郎『歴史家のみた日本文化』(1983年)
 第2部 中の「川柳にあらわれた江戸時代庶民意識」

からである。

※1この記事を書いたのは、下記の書を畏友F氏から教えて頂いたおかげである。

こだま『夫のちんぽが入らない』扶桑社(2017年)

※2この記事で、都会人を持ち上げて、田舎者を蔑んでいるわけではない。私自身が田舎者(東シナ海の潮騒を聞いて育った)である。「イモ」であることに無自覚な輩が他者を睥睨するのを見ると、どうしようもなく私の不快指数がマックスになるというだけである。ちなみに、私は「サツマ」イモも「ジャガタラ」イモも好物の一つである。

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