東浩紀『観光客の哲学』2017年4月、を巡る雑感(1)
表題の本を読了したのだが、どう言うべきなのか読後感を書きあぐねている。とりあえず、書き綴ってみることにする。
私にとり最も興味深かったのは、第1章「観光」、第2章「政治とその外部」、第5章「家族」なので、そこらへんからやってみよう。
■第1章観光
徳川日本では、旅が庶民層まで娯楽として盛んだった。例えば、18世紀後半(天明期)から盛んに出版される、名所図会等の観光案内書の内容が、神社仏閣、風光明媚な景色の名所案内から、19世紀に入ると、産業現場への観光的関心にシフトし、文化年間あたりになれば、列島各地の名物名産の生産工程や商業の現場を新名所として、続々と紹介し出す。こうなると、庶民の旅は、ほぼ観光化している。
青木美智男『日本文化の原型』(全集 日本の歴史 別巻)小学館、2009年、参照
ならば、徳川期に庶民の旅について考えた思想家がいるかも知れない。検討の余地はありそうだ。
■第2章政治とその外部
1)ヘーゲル=コジェーヴ的人間(本書P.99)
誇りを失い、他人の承認も求めず、与えられた環境に自足している存在は、たとえ生物学的には人間であってももはや精神的には人間とは言えない。・・・。だから、人類がみなそのような自足した存在になってしまえば、人間の歴史は(種としての人類そのものが存続したとしても)終わる。
コジェーヴは、アメリカの消費者は、「動物」だと規定した。(本書P.100)
2)ヴェーバー的末人<letzte Menschen>(Max Weberプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、岩波文庫1989年、P.366)
営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り払われていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。将来この鉄の檻に住むものは誰なのか。そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも(そのどちらでもなくて)一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。(中略)、こうした文化発展の最後に現われる「末人たちletzte Menschen」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。
ヘーゲル=コジェーヴ的見解の場合、少数の身分的/精神的的貴族を除いて、衆愚 multitudeが動物化する。ヴェーバー的見解では、米国では、multitudeだけでなく、カリフォルニア・イデオロギスト(IT技術者、シリコンバレー大富豪)、年棒数十億円のスポーツ選手・大企業CEO、年棒数千万円の有名大学の理系有名教授、彼らはそれほどの額を稼いでいても、他所により多くの収入の機会があるなら、その契約を選択する。しなければ、むしろ奇怪に思われる。そうであれば、米国ではmultitudeだけでなく、身分の上下を問わず、社会丸ごと、末人化、していることになりそうだ。そして、今、世界は着々と米国化(globalization)が進んでいる。
いずれにせよ、1)にしても2)にしても、終末論(eschatology)的な世界観を背景に持っているようだ。私が東氏の議論に今一つ乗れないのは、そのせいかも知れない。
■第5章家族
この章で、村上・公文・佐藤『文明としてのイエ社会』中央公論社1979年が参照されている。「家族の哲学」を文明論的なパースペクティブで論じる際のモデルとして評価しているようだ。ただ、注意すべきは、日本でこの分野(法制史、国制史)の泰斗といっていよい、石井紫郎氏から、
「われわれは本書の「イエ社会論」には理論的・実証的無理がある、と結論せざるをえない。」石井紫郎「「イエ」と「家」」、笠谷和比古編『公家と武家Ⅱ 「家」の比較文明史的考察』思文閣出版1999年
、P.183
と評されていて、日本史としての実証史学上にはかなり問題があり、その批判に妥当性があるという点である。したがって、これを利用する際には、「家族」文明論における論じ方の一つ、として受け止めたほうが無難だろう。
■付け足し
関 曠野のヘーゲル論として、下記のエッセイがある。
関曠野「欲望を思考する」(1985年)
〔 同著『野蛮としてのイエ社会』御茶の水書房(1987年)所収、pp.345-347 〕
小さなエッセイだが、優れたものと思う。弊ブログに、全文、再掲してある。ご関心をもたれた方は下記をみて欲しい。
ロゴ スという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos): 本に溺れたい
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