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2018年3月 5日 (月)

R.N.ベラーの和辻哲郎論

 以下は、
原題Bellah, R. (1965). Japan's Cultural Identity: Some
Reflections on the Work of Watsuji Tetsuro. The Journal of Asian
Studies, 24(4), 573-594. doi:10.2307/2051106

邦題〕 R.N.ベラー(勝部真長訳)「和辻哲郎論」
 所収 湯浅泰雄編『人と思想 和辻哲郎』三一書房1973年、pp.69-106
という、先年物故した著名な米国人社会学者ロバート・ベラーの、和辻哲郎を論じたとても面白い論文の感想です。

 本論文は、今から50年も前のものですが、勘所を押さえた優れた和辻論です。米国人として和辻の米国批判論に皮肉を交え切り返したりして面白いです。ただ、それだけでなく、和辻の全体像を評したものとして(批判的文脈からではありますが)重要であり、いま読んでも十分参照に値すると感じます(下記の引用頁数は、全て邦訳から)。

 

【1.内容】※本エッセイには、章立てはあるが小見出しは特にない。下記は引用者がつけた。

 

導入    日本的個別主義(Japanese particularism):国民的ナルシシズム
    「日本はユニークである(中華文明圏の一部ではない)」

 

1.背景
    19世紀日本(徳川末~明治初日本)の自己了解
    明治期の反個別主義者、福沢諭吉と内村鑑三
    日本的個別主義の完成    天壌無窮の皇祚(教育勅語・明治憲法)
    明治国家の公認スポークスマン 井上哲次郎(「教育勅語衍義」)
    大正昭和期の反個別主義者、河合栄治郎と河上肇
    中間派、夏目漱石と西田幾多郎
    多様な反個別主義者、津田左右吉、羽仁五郎、家永三郎
    中立的アカデミシャン、村岡典嗣

 

2.考察
    和辻哲郎の戦時下パンフレット 戦時国民文庫1944年7月10日刊
    「日本の臣道」
    「アメリカの国民性」

 より根本的にいえば、おそらく和辻の体系には、個人や社会の行為を判定する基準、普遍的先験的な基準が欠けているのである。もし国家が人間価値のもっとも完全な具現であるなら、国家そのものは日本の天皇という人物に表現されてしまう。戦時中のパンフレットで引用したように、和辻は天皇制を世界中の宗教や哲学よりも上にあるものとしてまつりあげた。そしてそれを人間の文化表現の最高形式とみた。彼の倫理学の中心は、彼自身しばしばいうように、天皇制の倫理学である。言い訳はいろいろあろうが、和辻の理論はまさしく日本の個別主義にかかわりあいをもつものである。(pp.97-8)

 

3.評価

 さてここで考察を転じて、われわれがはじめに問題にしていた国民的ナルシシズム、あるいはもっと中立的ないい方をすれば文化的個別主義について、和辻哲郎から何を学ぶことができるか考えてみよう。和辻は文化的個別主義に表現を与えたのみならず、それを鋭く分析しているという点で、とくにわれわれを助けてくれるであろう。(p.101)

 

和辻の場合、われわれはいかに教育ある日本人が西洋の普遍主義にひかれたかを見てきた。彼の場合、それはニーチェやキュルケゴールの作品を通してであったが、しかも結局は不満足のまま終わった。その他多くの人々……作家、学者、社会思想家……も同様の経験をくぐったのである。この状況の解決を見出そうとして、和辻は日本の個別主義と世界文化との和解を求めた。だが、われわれが論じてきたように、彼は日本の個別主義に、新しい西洋風の哲学的理論的根拠を与えることに成功したにすぎなかった。(pp.104-5)

 

 第二次世界大戦における日本の敗北と分かちがたく結びついているこの明確な形の個別主義は、戦後の時期には大そう深く否認されたので二度と再び現れそうもない。しかし明白なイデオロギーとしてよりも暗黙の前提として存続するのが、日本の個別主義の精髄である。そしてその暗黙の前提は、日本の社会構造に具現化されて存続する、すなわち無数の「天皇制」として。明白なイデオロギーの世界で何が起ころうと、日本では「人間の絆」が思想や個人よりもはるかに力強く顕著に存続するということは本当なのである。(p.105)

 

【2.読後感】
 私がこのエッセイを読み終わって最も感じたことは、現代日本人にとっての和辻哲郎という思想家の重要性です。私は俄然、和辻に興味をそそられ、ベラーの批判的評価にも関わらず、しきりに読みたくなりました。

 

 私の関心を強く刺激したのは、戦時下パンフレットでの、ベーコンの操作論的世界観とそれに見合うホッブズの機械論的社会観の典型国家=米国の批判、その原型としての、「原始基督教の文化史的意義」1926年での古代ローマ帝国の批判です。これは21世紀の現代でも有効な論証だと思われました。なるほど、「他人の考えるところと充分に対決しながら、自分自ら考えていくこと」が論理的に考えることだ、と弟子に応答した和辻らしい切れ味だという感を深くしました。

 

 ベラーが遠慮なしに論争的であるところも含め、刺激的で面白い論文です。図書館等を通じて読まれることをお薦めします。

 

追記(20180306) 日本でベラーは下記の著で知られています。ご参考まで。
1.徳川時代の宗教 (岩波文庫)、1996年
2.心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ、1991年、みすず書房
3.善い社会―道徳的エコロジーの制度論、2000年、みすず書房

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