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2018年3月 2日 (金)

近世の排仏論

 一世紀に及ぶ内戦である戦国期が、最終的に大坂夏の陣(1615年)を最後に終息して、元和偃武=Pax Tokugawana がもたらされますと、死と来世=彼岸に日常的に直面していた列島庶民の心性は、ようやくそのベクトルを此岸に向けることが可能となりました。この世から切断された来世志向から現世と地続きの未来志向への転換です。

 日本では戦国期に一向宗や法華宗が来世の保証を梃子に現世に実力(power, Macht)持ち、欧州では宗教改革から三十年戦争にかけてローマ教権やプロテスタントの神権政治が可能だったのは、ある意味当然です。武器で身体は自力救済できますが、魂は自力救済できませんから。

 仏教は、基本的に厭世観に満ちています。この世は辛い。この世を超えた来世にこそ真の幸福がある。したがって、現世を拒否します(Max Weberの言う、現世/世界拒否 Weltablehnung、rejection of the world)。その刻印が、出家であり、剃髪です。

 だから、現世の真只中の、生臭い権力とは、仏教は水と油の関係のはずです。ただ、日本列島の権力者が、国制の見本(統治モデル)として模倣した中華帝国、隋・唐は、鮮卑系の王朝でしたので北伝仏教即ち大乗に帰依していため、仏教全盛の時代でした。そして飛鳥・奈良朝の権力者たちは、律令と北伝仏教の合体した隋・唐の先進国制を丸ごと移植しようとしたミメーシス王権でした。

 こうして列島住民は仏教化し、仏教はしだいに日本化しました。これがこの列島における「文明化の過程」だった訳です。当然、仏教は体制化(=世俗化)し、力、名声、富、を得ます。それで数百年間やってきたら必然的に腐敗し、俗臭にまみれます。壮大な荘園と僧兵を有する南都北嶺や五山の僧たちです。スタンダールの「赤と黒」ではありませんが(赤は軍人、黒は僧侶でどちらの身分にも、貴族の次三男坊がもぐりこんでいる)、官寺には明確なヒエラルキーがあり、帝位につけない帝の息子や官位につけない高級貴族たちの子弟は僧侶に平行移動しますから、人脈的、人材のリソース的には、大寺院と王朝国家は一体のものです。

 一方で、鎌倉以降、南北朝、室町、戦国、と列島の政治状況はアナーキー化し、現世の秩序が徐々に崩壊していきます。自力救済の社会です。ここで鎌倉期と似た状況がおこり、本願寺第8世蓮如に代表される宗教カリスマにより仏教に一種の宗教改革が起き、再び活力をえた仏教は庶民に教線を拡大しました。同じ理由で、キリシタンも燎原の火のごとく広がり、信徒を集めました。それが戦国の世だったことになります。

 つまり、仏教はアンシャンレジーム(王朝国家)と一体化したもので、武士たちはそれを恐れ、警戒し、大寺院から力(荘園、ステイタス、政治力)をはく奪するべきだと考えたのです。しかし、それは王朝国家の一部としての大寺院体制であり、下層庶民に広まった民衆仏教ではありません。民衆仏教が力を発揮するとどうなるかは、信仰に基づく一揆を見ればわかりますが、ただそれは教団トップを抱き込めばなんということはない、ということを武士たちは理解していました。したがって、逆に、民衆仏教を民衆統治の手段とすべく、檀家制度を17世紀半ばに構築します。

 儒家思想家や神道家が皆、揃いもそろって、排仏論を繰り広げるのは、民衆のモラルの根っこに大衆仏教が浸透し、近世初期に事実上、この列島の国教となっていたからに他なりません。その状況は、徳川期を通じて確固としたものとなりました。それだけに、維新期初期の、神仏分離・廃仏毀釈という文化大革命の嵐は、民衆のモラル破壊に直結しました。明治期の立身出世主義は、民衆の空洞化した心を埋め合わせる物語として接合しビルトインされたのです。

 維新政権の自己評価においては、徳川の世から大帝の御代の移り変わりは、「野蛮から文明」への進歩と自得していたでしょうが、客観的には「文明から野蛮」への退歩だったことになります。

 下記の、私のブログ記事、特に、①に付けられた思想史研究者からのコメントをご参照ください。

末木文美士『近世の仏教 華ひらく思想と文化』吉川弘文館2010年(後編)

渡辺浩『日本政治思想史 ― 十七~十九世紀』東京大学出版会(2010年)(番外編)

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