三島由紀夫が誘(いざな)う、小説の楽しみ方
小説はそのなかで自動車でドライヴするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくとき、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びとしました。
しかし現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音符なのであります。
三島由紀夫「文章を味わう習慣」『文章読本』1973年中公文庫、pp.43-4
しかし日本には、一方に漢文の文章の影響からくる極度に圧縮された、極度に簡潔な表現、あるいはまた俳句の伝統からくる尖鋭な情緒の裁断、こういう伝統がやはり現代文学のなかにも生きていて、われわれの美しい文章というもののなかには、いかにも現代的に見えながら、なお漢語的簡潔さや、俳句的な密度をもったものが少なくありません。結局、文章を味わうということは、長い言葉の伝統を味わうということになるのであります。そうして文章のあらゆる現代的な未来的な相貌のなかにも、言葉の深い由緒を探すことになるのであります。それによって文章を味わうことは、われわれの歴史を認識することになるのであります。
三島由紀夫「文章を味わう習慣」『文章読本』1973年中公文庫、pp.47-8
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