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2018年7月14日 (土)

他山の石、あるいは小林秀雄のこと

 「他山の石」とは、石を磨くのに使う、もう一つの石のこと。転じて、他人の善いおこないは見習い、悪いおこないは自分の戒めにすること。「人の振り見て我が振り直せ」の意。

 さて、小林秀雄、のことです。小林秀雄に「文化について」(昭和24年)という随筆があります。敗戦(1945年)後、日本人は深く(たぶん)反省し、これからは、干戈(=軍事力)ではなく、文化だ、というわけで、文化人(主に作家や文芸評論家)による「文化講演会」なるものが、大新聞社や大出版社の後援をうけて、戦後日本の津々浦々で行われました。そういう時代に引っ張りだこであった一人が小林秀雄でした。この随筆はその数多くの講演会の一つが元になっています。

 このエッセイは、「文化」と「批評」という二つの言葉を手掛かりに、昭和日本人の西欧理解の浅さを「叱責」する、という行文になっています。

 問題は、「批評」です。小林はこう言っています。

 もちろん、批評のないところに、新しい創造はないはずだ。批評は創造の手段であって、批評のための批評なぞいうものはない。ないはずのものが有り過ぎるのであります。クリティカルとかクリティックという言葉は批評と訳しているけれども、本来は危険という言葉です。危急存亡のことをクリティカル・モーメントという。まただんだん進んで行って、もうその先へ行けないという限界点を意味します。critiqueという言葉は西洋人にとっては、そういう語感がある。たとえば医者がお前はここが悪いと言う場合、「ここがクリティックだ」という。

 この時、小林は47歳で、昭和日本を代表する批評家としてその第一線に立っていて、年齢的にも脂の乗りきっていた頃でしょう。その小林が言っていることなので、聴衆は「さすが小林先生」と深く頷いて、メモなどとっていたのだと想像されます。

 私はこれを読んだとき、な~んだかおかしいなぁ、と不可解でした。「批評」のクリティックと「危険な/臨界的な」のクリティックが同一の語源から発しているというは、どうも不自然で整合的ではないと思われたのです。で、ま、いっかと、ずっと放置しておいたのですが、つい最近ちょっと調べてみようと思い直して、手許のジーニアス英和辞典(第五版)にとりあえず当たってみました。すると、わかったことはこうです。

 確かに、criticalという形容詞には、「批判的な、批評の」、の意と、「重大な、危険な」、の大別して二つの意味がありますが、前者は、critic(原義:見分け判断できる人)からの派生語、後者は、crisis(原義:決定的なもの→重要な分岐点)からの派生語、でありまして、名詞が形容詞化する際の語形の変化で、たまたま同一の、criticalとなり、辞典上は、同一項目におかれているに過ぎない、ということでした。

 重箱の隅を楊枝でせせる、の類の文句ではあります。しかし、学習用の英和辞典を見ても確認できることを、近代日本を代表する批評家が少し調べることもせずに、公共の言論として発してしまうのは、危ういことですし、恥ずかしいことです。

 私は大学生のころ、教養主義の強迫観念の下、小林の「考えるヒント」を随分読み、自慢げに鼻をひくひくさせていたものです。その後、憑き物が落ちたように読まなくなり今日に至っています。彼のベルグソン論やドストエフスキー論に借り物の臭いがして読む気が失せたのだと思います。

 従いまして、本居宣長という人間(=二百年前の自己狂言者)は私のマークしている要注意人物で、深く知りたいと願っているのですが、小林の畢生の大著『本居宣長』には全く食指が動きません。私の邪で愚かな偏見なのだろうとは思いますが。

 付言すれば、上記エッセイの、後ろの部分で、小林は近代日本の批評が批評者自身に届かない不徹底さを論難して嘆いていますが、これは、デカルトの「cogito, ergo sum」を下敷きにして、それを焼き直しているだけです。少なくとも、これらの小林の議論は実に下らないものである、と私は評価します。私にとり、小林秀雄よりも読むに値するものはたくさんあるので、今後読むことはないのではないか、と想像します。

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