「できる can do 」とは「思い出す recall」こと
久しぶりの、続きのようなものです。
「わかる・できる」マトリックス(1)
「わかる・できる」マトリックス(2)
「わかる・できる」マトリックス(3)
人間の知識(あるいは認識)の状態を、「できる」ことと「わかる」ことに大別します。
「できる」=「本人によって言語化の可・不可、意識する・しないに関わらず、できること/できてしまうこと」
「わかる」=「本人によってやれる・やれないに関わらず、了解する/了解できること」
上図における領域は下記のように解釈できます。
F=「意識していないが、やろうとするとできてしまうこと」
G=「自分ではわかっているが、どうもうまくできないこと」
H=「できないし、知らないこと、本人の関心領域外のこと」
ひとは、できるとわかっていることはできるし、できないと知っていることはできない、と思っています。しかし、上図でわかることは、「できる」ことと「わかる」ことの間には、本人が気付いていないズレがあるということです。従いまして、他人から聞く(指摘してもらう)しかありません。
これは人間の合理性(ものごとを秩序だって、整合的に認識する能力)の限界に起因することなので、ご本人の知的能力が高いとか低いとかとは基本的に関係がありません。従いまして、一流のプロフェッショナルなゴルファーやテニス選手が個人コーチを持ち、第一線で活躍する声楽家が個人トレーナーにチェックしてもらうことは避けられないし、当然のことでもあります。
とすると、《教育》とは、ある出来上がった、操作可能な対象 object を、先生が生徒に与える(give)ことというよりは、ご本人が認知できていない先ほどのズレを他者の立場から分析し、当事者をモチベートするような言葉にして伝えることであり、それを通じてご本人の成長を促すこと、と言えるでしょう。「教え育てる」ではなく、「伝え育つ」です。
簡単にいえば、「ほら、こうすれば、できそうでしょ?」とか「もう、できてるじゃない?」と伝えてあげることです。本人に、成長の具体的な見取り図をちょっと示してあげること、でもあります。
人間はできることしかできない。しかし、「できる」ことを本人が「忘れている」とするならば、「できる」とは「思い出す recall」ことだ、と言えるかもしれません。
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