江戸人の「本居信仰」(1)
言葉/message には送り手と受け手がいます。
ブッダ Buddha 、孔子 Kǒng zǐ やイエス Jesus が言葉を残す。それを誰かが受け止める。歴史上の偉大な人物や思想家の言葉は、テキストとして残り、それを後世の人々が読むことになります。そのとき、私たちはその人物が「なんと言ったのか」、その発言の「真意はなにか」という点に注目します。その人物の言葉や行動が気になり、もっと知りたいと思うから、その書を繙(ひもと)くのですから、当然です。
しかし、へそ曲がりで、多数の人々の織りなすに軌跡としての歴史に関心のある私は、《聖人》たちが「なに」を「どう言った」か、よりも、人々がそれを「どう受け止め」てその後「どう行動したのか」に興味がいってしまいます。
この日本列島の初期近代(early modern age)に、本居宣長(親から与えられた名は、小津富之助)という人物がいます。生まれたのが1730 (享保15)年、没したのが1801(享和1)年 ですから、徳川18世紀を丸々生き切った計算です。この人の名を聞くと、年配の方なら、「かんながらのみち(惟神の道)」といった言葉を思い出して、昭和初期の暗い日本を連想してしまうかもしれません。生業は医師(薬師)です。この列島が生んだ最も偉大な学者の一人で、流布している古い宣長像に反して極めて明晰で、論理的な頭脳を持つ人物です。徳川中期の伊勢松坂という、大きな波乱もなく静謐な生活の中で、己の才を発揮するために天寿を全て使い切りました。歴史上、往々天才は薄命なものであることに比べると、幸運な人とも言えそうです。
これだけの人ですから、現代も含め、後世に正負ともに大きな影響を残しています。無論、彼の学問的遺産やその思想が優れて巨大なものだったことがその理由ですが、宣長の思想や学問はなにか、と問い続けている限り、彼の歴史上の意味は分かりません。宣長を他の人々はどう受け止め、どう宣長を語り、そしてどう行動したのか、を知らないと、歴史への影響力を実測できないと思います。下記はそのサンプルです。
左の画像にマウス・ポインタを重ねて拡大画像を見て下さい。真ん中、右下の置時計風の絵の下に「本居信仰 もとおりしんこう」と、字とともにご丁寧に振り仮名までふってあるのがわかります。これは、1809(文化6)年に出版された、変体仮名・草書体漢字で印された木版本(いわゆる和本)です。宣長が没して8年後に出されていることになります。
二つめの画像は、当該の頁すべてのものです。「本居信仰」以降を読んでみましょう。画像が不鮮明で、印字の状態もよくありません。さらに困ったことに現代の活版印刷の本とはかなり異なり、読むのが難しそうなので、私はあんちょこを利用させて頂きます。すると、こう読めます。
本居信仰にていにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかな人がらよき婦人二人おのおの玉だれの奥ふかく侍るだらけの文章をやりたがり、几帳のかげに檜扇でもかざしてゐそうな気位なり けり子「鴨子さん、此間は何を御覧じます」と かも子「ハイうつぼを読み返そう存じてをる所へ、活字本を求めましたから幸ひに異同を訂してをります さりながら旧冬は何角と用事にさえられまして、俊蔭の巻を半過ぎるほどで捨置きました」 けり子「それはよい物がお手に入りましたね。」 かも子「けり子さん、あなたはやはり源氏でござりますか」 けり子「さやうでござります。加茂翁の新釈と本居大人の玉の小櫛を本(もと)にいたして書入をいたしかけましたが俗びた事にさへられまして筆を採る間がござりませぬ」 かも子「先達てお噂を申た庚子道の記は御覧じましたか」 けり子「ハイ見ました。中々手際な事でござります 志かし疑はしい事はあの頃にはまだひらけぬ古言などが今の如ひらけて、使ひざまに誤のない所を見ましては校合者の添削なども少しは有つたかと存ぜられますよ」 かも子「何にいたせ、女子であの位の文者は珍らしうござります 先日も外(ほか)で消息文を見ましたがいにしへぶりのかきざまは手に入った物でござります」 けり子「さやうでござります。何ぞ著述があつたでござりませうね。」 「世に残らぬは惜しいことでござります。ホンニ怜野集をお返し申すであった。永々御恩借いたしました。有りがたうござります」
この三つの画像は、すべて同一の和本からのもので、式亭三馬『諢話浮世風呂』2編の序題:女湯之巻。文化6年の再刻本です。出典は優れた古典籍コレクションを有する早稲田大学図書館様の下記サイトからDLしたものです。
古典籍総合データベース 浮世風呂. 前,2-4編 / 式亭三馬 編 ; 北川美丸 画
そして私が上記和本のあんちょことして使用したのが、国立国会図書館(NDL)デジタルコレクションの下記です。
本居宣長は、没して10年も経たないうちに、式亭三馬『浮世風呂』によって、笑い話の種として使われました。ということは、生前からその盛名が、遠く江戸まで鳴り響いていて、富裕な町人の妻たちの日常会話に既になっていた。それもゴシップの類というより、サッカレー(W.M. Thackeray,1811―1863)が『スノッブ読本The Book of Snobs』(1848)で、イングランドの中産階級(middle class)のsnobbismを揶揄した現象と事実上同じものがあった、ということです。そして、より重要な事実は、「本居宣長の学問/思想」とされていたものが、徳川庶民にとって特別に知的なことではなく、ちょっと知的に気障なことぐらいのポピュラリティを得ていた、普通の会話アイテムになっていた事でしょう。こういうところに現れる「当たり前さ」が、普通の多くの人々をそれとは知らずに動かす、「思想」の真の影響力であると私は思います。
※参照 思想史研究における生産者主権と消費者主権: 本に溺れたい
また、同一の書物であるにも関わらず、文化6(1809)年の『浮世風呂』の和本の木版書体と、①明治18(1885)年の洋装本の活版書体、また②明治41(1908)年の活版書体がそれぞれかなり変化していることに気付きます。
②は活字が使われていますが、ところどころ変体仮名がまだ使われています。③は、②と同じく活字書体ですが、変体仮名はかなり減り、その代わり、漢字の当て字が急激に多くなっています。
変体仮名は、一音にも様々な漢字から変形した何種類かの字体が使われていたものです。平安の古代から、明治33(1900)年まで。明治33年 に、小学校令が改正(左記、画像参照)され、そのときの施行規則第16条で、一音に一字の仮名が確定・制定されました。つまり、変体仮名の使用禁止です。徳川期の木版印刷物は変体仮名/草書体漢字、明治前期の活版印刷物は、多少減りましたが変体仮名は使われていましたので、明治33年以降に初等教育を受けた日本人は、基本的に、それ以前の印刷物、特に徳川期の木版印刷物(和本)は、読むことが出来ない事態となっていた訳です。
弊ブログで何回か触れましたが、国文学者中野三敏氏によれば、徳川期に写本や木版印刷で出版され、流通した書物で、明治以降、文部省制定の正書体仮名で活版印刷化(翻刻)されたものは、大きく見積もっても、徳川期総流通点数の1%を超える程度とのことです。逆に言うと、私たち現代日本人は徳川270年間の書物のうち、99%を実は知らない蓋然性が高く、それらを読まないままで論じて来ていたことになります。
中野氏以外にも、歴史学者平川新氏が、「日本には数億点の歴史資料が未発見・未整理のままに眠ってい」て、「多くは江戸時代や明治時代に村役人を務めた旧家に保管されてい」ますが、もし「これらが全部発見され歴史研究に活用されると、これまでの歴史解釈や歴史理論の多くはひっくりかえるのではないか」と述べています。『戦国日本と大航海時代』/平川新インタビュー|web中公新書
この数億点の文書類は、当然徳川フォーマットである、変体仮名/草書体漢字で書かれていますので、問題はかなり大きいと思われます。
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