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2020年3月25日 (水)

歴史の必然 Historical Inevitability (2)

 Isaiah Berlin は、現在のバルト三国の一つ、ラトビアの首都リガ(当時はロシア帝国領)で、裕福なユダヤ系(他にロシア系、ドイツ系も混じる)材木商に長男として生まれました。8歳でロシア革命に遭遇し、母親とともにロンドンに逃れます。おそらくロシア語とドイツ語のバイリンガルで、ヘブライ語が宗教用の第二母語でした。

 彼が、歴史哲学(歴史方法論)で主張した最も大事な点は、決定論と倫理的/宗教的な言説は両立しない、としたところです。

 前者の決定論は、to be(~である)という事実命題、後者の倫理的言説は、ought to be(~であるべきだ)、という規範命題の記述形式になります。決定論が事実命題であるということは、例えば唯物史観の公式でいうとこうです。

 下部構造(Unterbau/substructure)が上部構造(Uberbau/superstructure)とは独立に駆動し、上部構造はそれによって決定されている。

 この唯物史観が事実命題だとすれば、人類が過去に積み上げてきた、宗教上の言説(聖書、コーラン、仏典、四書五経)のすべては人間にとって有効ではなくなる。「汝殺すなかれ」と説くことは、その場その時において、「殺す」ことと、「殺さない」ことが当人において選択自由であるからこそ有効であり、仮に「殺す」ことや「殺さない」ことが、本人の意思を超えた大情況によって、予め決められているならば、こういった過去の「ought to be」という倫理的言説は無意味である。すなわち、「決定論」と「倫理的言説」はどちらかが立てばどちらかが立たない、と言う意味で両立できない。

 「過つ」ことも「過たない」ことも可能であり、ひとは意志によってそれを選ぶことができ、「過っ」てもそれを教訓として、なお自己を修正、改善することに人間の世界が開かれていること。これが人間の自由の根源的意味である。

 上記が、Berlin が第二次大戦後のマルクス主義最盛況のころに発表した、 'Historical Inevitability'(1953)の核心です。Berlin は、その当時の思想状況を前提に発言していますが、彼の主張は長い歴史的射程を持っていて今でも十分説得的である、というのが私の判断です。人々の織りなしてきた「歴史」を前にしたとき、私が粛然としてしまう理由です。私が「歴史」に向かう心の構え、でもあります。

〔参照〕歴史の必然 Historical Inevitability*: 本に溺れたい



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