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2020年4月13日 (月)

イザイア・バーリン(Izaiah Berlin)の歴史哲学と私の立場/ Izaiah Berlin's Philosophy of History and My Position

 バーリンは20世紀の最も重要な政治哲学者の一人です。彼はロシア帝国領下のユダヤ系バルト人として生を享け、ロシア革命の時に家族と共にイングランドに逃れました。多感な少年期に複雑な政治的事情に翻弄されるという人生経験を経て、結果的に後の慎重で、抑制のきいた、深い人間洞察に基づく政治哲学を形成します。

 彼の歴史観(歴史哲学)も自身の政治哲学と深くつながっています。20世紀の人類の歩みは、前半の二度に及ぶ世界大戦と米ソ冷戦という人間の愚行と、自然科学あるいは技術革新の華々しい勝利の後半に特徴づけられます。バーリンが活躍した1950年代から1980年代はとりわけ冷戦と技術革新の時代でした。なおバーリン自身、第二次大戦にイギリス陸軍情報将校として従軍しています。

 当時、知識人世界を風靡したのは、マルクス主義、そして科学技術至上主義でした。それらから導き出された歴史哲学は、前者の唯物史観的歴史決定論、後者のテクノカルト(techno-cult技術信仰)的歴史決定論でした。それらを正面から批判した代表的論者の一人がバーリンです。

 バーリンは、歴史決定論がまちがっている、という論じ方はしません。歴史決定論と道徳的、倫理的言説は矛盾してしまい、もし歴史決定論が正しいとするならば、世の中に、人間行為による善と悪、責任、という範疇が存在する余地がなくなってしまう、と批判しました。

 そして、そこに自由という観念を結びつます。人間は「過つ」ことも「過たない」ことも可能であり、ひとは意志によってそれを選ぶことができ、たとえ「過っ」てもそれを教訓として、なお自己を修正、改善することに人間の可能性が開かれていること。これが人間の自由の根源的意味であることを述べました。バーリンが「消極的自由」=「~からの自由 freedom from ~ 」を頑固に主張したのもこの考え方が与って力があったと思われます。

 上記のバーリンの主張に私は全面的に同意します。と言うよりむしろ、私がそう教えてもらったと表現したほうが適切でしょう。21世紀の今日から見て、なお私に言えることがもしあるとすれば、「決定論」には二種類あると考えたほうがよいのではないか、ということです。

 私たちは、過ぎ去った自分の過去の行為を訂正したり、タイムリープしてやり直しできません。過去はリセットできない訳です、当り前ですが。また、ある特定の名を持つ一組の男女の結合で生まれた、ということは人間的事実として受け入れざるを得ません。それは「決定的」です。つまり「過去」は「決定」されていて、「未来」の行動においても人間は何らかの程度でそれに「拘束」されてしまうことは否定の仕様がありません。両親が美男美女であったら、それが人生に影響しない訳がありませんよね。

 また一方で、私たちがどんなに長生きしても百五十歳まで生きることは不可能です。従いまして、私たちがいずれどこかで「死」を迎えることも選択の余地なく決定されています。その上、いま地球上に何百トンと積み上がっている「核のゴミ」の放射能が、無毒化する十万年後まで人類が生存する、という予想にはネガティブにならざるを得ないでしょう。そういう意味で人類が十万年後には絶滅しているだろう、ということも「決定」的と言ってよさそうです。

 つまり、「人間」という存在にまつわる、「長期」で「マクロ」の歴史的推移は「決定」論的だとみなしてもよいわけです。この事実は熱力学第二法則「エントロピー増大則」とも理論的に整合的です。これを「存在的決定論」と呼んでおきます。

 ではバーリンが言い、私も信じている「自由」、を保証する「非決定」的な事象は何と呼べばよいでしょうか。これは「行為的非決定論」と呼んでおきましょう。そして、この場合、誰が親なのか。自分は何国人なのか。令和の人なのか、昭和の人なのか。男か女か。こういったことは、私たちを「拘束」する「重荷」というだけではないと考えたい。むしろ、私たちの行動の自由を支える「資源 resource」と言ってよいのだと私は主張します。「伝統」というとそれこそ私たちを「束縛」し、「自由」と相容れないものと思われがちですが、あえて「資源 resource」と考えると、私たちの動きを楽に「自由」にしてくれるのではないでしょうか。私はこの議論を「歴史資源論」と呼びます。

 私の歴史哲学、あるいは歴史理論の構想は、バーリンの歴史哲学と現代科学の議論とを「長期かつマクロ」の視点で調和させ、バーリンの自由論政治哲学を「歴史資源論」で補強・支援し発展させようとするものです。この構想には、梅棹忠夫「生態史観」や渡辺慧「科学哲学」、塩沢由典「複雑系社会科学」も動員されていますが、その議論はまた、別の機会で敷衍できればと思います。

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