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2020年10月11日 (日)

幕末維新テロリズムの祖型としての徂徠学(3)/ Ogyu Sorai as the prototype of the Meiji Restoration terrorism

(2)から (4)

 本記事に関連して、鋭い質問がありました。下記。

Q,「中国や韓国は体制の学として(個人主義的)儒教を採用してきたというのは、どういうことでしょうか。これはまた別の儒学、あるいは儒教の中の一部、あるいは他の学との混血という事でしょうか。」

 誠に核心を衝くお尋ねです。確かに《儒家》が個人道徳を鼓舞するものなら、なぜ中華帝国の各王朝は個人道徳をもちあげねばならないのか? 私の当面の回答は以下です。

A.とりあえず、簡略にお答えします。
 儒家の教説(儒教)は、個人主義の倫理学ですが、それは一般庶民に向けてではなく、帝王(あるいは、君主)、統治者身分に向けてのものなので、社会科学、社会工学は不要ということです。
 そしてこれは、プラトンの「哲人王」どころではなく、スーパーマン=超人が統治すべきだ、ということを意味します。なにしろ、「天命」を受肉しているので、そうならざるを得ない。
 そして、こういう儒教に数千年間、馴致された中国人たちは、例外なく「人は自分より優れた人間(帝王)には従わなくてはならない」→「自分よりアホに従うべきではない」という個人主義倫理、エートスを身につけます。従いまして、いかなる時代におきましても、中国人は「圧倒的に優れた」「帝王(皇帝)」が登場するまで、誰もおさまりません。だから、超歴史的に「独裁(皇帝政治)」に逢着します。
 つまり、アナーキーか、独裁か、です。あれほど大きい国だから、連邦制にでもすればよい(三国志、五胡十六国、南北朝等の国家が分裂=分立した歴史的実例はありますが、誰も納得しない)と思うのですが、王が並び立つような、連邦制や合衆国、では、中国人には合点がいかない。「天下」に Boss と呼べる人間は一人しかいない訳です。それならば、United Kingdom(UK)のような同君連合というような国制も考えられますが、そういう歴史的事例はなさそうです。

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