幕末維新テロリズムの祖型としての徂徠学(3)/ Ogyu Sorai as the prototype of the Meiji Restoration terrorism
誠に核心を衝くお尋ねです。確かに《儒家》が個人道徳を鼓舞するものなら、なぜ中華帝国の各王朝は個人道徳をもちあげねばならないのか? 私の当面の回答は以下です。
A.とりあえず、簡略にお答えします。
儒家の教説(儒教)は、個人主義の倫理学ですが、それは一般庶民に向けてではなく、帝王(あるいは、君主)、統治者身分に向けてのものなので、社会科学、社会工学は不要ということです。
そしてこれは、プラトンの「哲人王」どころではなく、スーパーマン=超人が統治すべきだ、ということを意味します。なにしろ、「天命」を受肉しているので、そうならざるを得ない。
そして、こういう儒教に数千年間、馴致された中国人たちは、例外なく「人は自分より優れた人間(帝王)には従わなくてはならない」→「自分よりアホに従うべきではない」という個人主義倫理、エートスを身につけます。従いまして、いかなる時代におきましても、中国人は「圧倒的に優れた」「帝王(皇帝)」が登場するまで、誰もおさまりません。だから、超歴史的に「独裁(皇帝政治)」に逢着します。
つまり、アナーキーか、独裁か、です。あれほど大きい国だから、連邦制にでもすればよい(三国志、五胡十六国、南北朝等の国家が分裂=分立した歴史的実例はありますが、誰も納得しない)と思うのですが、王が並び立つような、連邦制や合衆国、では、中国人には合点がいかない。「天下」に Boss と呼べる人間は一人しかいない訳です。それならば、United Kingdom(UK)のような同君連合というような国制も考えられますが、そういう歴史的事例はなさそうです。
| 固定リンク
« 徳川日本の知的文脈とアブダクション史学(改訂 20240503)/ Intellectual Context in Tokugawa Japan and Abduction Historiography(revised 20240503) | トップページ | 幕末維新テロリズムの祖型としての徂徠学(4)/ Ogyu Sorai as the prototype of the Meiji Restoration terrorism »
「荻生徂徠(Ogyu, Sorai)」カテゴリの記事
- 徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠](2023.08.30)
- 自由と尊厳を持つのは、よく笑い、よく泣く者のことである(2)/ Freiheit und Würde haben diejenigen, die oft lachen und oft weinen (2)(2023.06.06)
- 徂徠、カーライル、そしてニーチェ/ Ogyu Sorai, Carlyle, & Nietzsche(2023.01.04)
- 尾藤正英著『日本の国家主義 「国体」思想の形成』2020年岩波書店(オンデマンド版pbk)(2022.11.28)
- ”White imperialism" and epistēmē or Foucault ‘abused boys in Tunisia’ (2)(2021.04.18)
コメント