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2021年7月20日 (火)

デカルト読まずのデカルト知り/ Are Americans Cartesians?

 先の宇野重規氏のトクヴィル本から教えて頂いたことで最も面白かったのは、アメリカ人が、「デカルト読まずのデカルト知り」だというトクヴィルの指摘です。このエートスは福澤諭吉のそれとそっくりだと思ったわけです。トクヴィルは続けて、すべてを疑っていてはむしろ大海原に浮かぶ小舟のようになる(これは私流の言い換え)ので、むしろ信仰が必要だと論じました。これも晩年の福沢の帝室論/宗教論と通底する部分があります。

 ここでは、念のため、トクヴィルのそのくだりを岩波文庫版からも引用しておきます。

トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第二巻(上)、岩波文庫、pp.17-8
第2巻第1部「デモクラシーが合衆国における知的運動に及ぼす影響」
第1章「アメリカ人の哲学、その方法について」

 体系の精神、習慣のくびきから脱し、家の教えや階級の意見、いや、ある程度までは、国民の偏見にもとらわれない。伝統は一つの情報に過ぎぬとみなし、今ある事実は他のよりよいやり方をとるための役に立つ研究材料としか考えない。自らの手で、自分自身の中にのみ事物の事由を求め、手段に拘泥せずに結果に向かい、形式を超えて根底に迫る。これらが、アメリカ人の哲学の方法と以下に呼ぶものの主要な特徴である。
 さらに進んで、これらのさまざまな特徴の中でも主要なもの、他のほとんどすべてを要約し得るような特徴を求めるならば、精神を動かす多くの場合、アメリカ人はみな自分一個の理性の働きにしか訴えないということに気づく。
 アメリカはだからデカルトの教えを人が学ぶこと最も少なく、これに従うことは最も多い国の一つである。

 

※参照 デカルト『方法序説』1637年(Discours de la methode)、を読む: 本に溺れたい

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