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2022年4月22日 (金)

夜の言葉(アーシュラ・K・ル=グイン)

 竜の物語に耳を傾けない人々はおそらく、政治家の悪夢を実践して人生を送るように運命づけられていると言っていいでしょう。わたしたちは、人間は昼の光のなかで生きていると思いがちなものですが、世界の半分は常に闇のなかにあり、そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語る者なのです。
アーシュラ K. ル=グイン『夜の言葉』(スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)1985年サンリオSF文庫、p.7

Those who rufuse to listen to dragons are probably doomed to spend their lives acting out the nightmares of poiticians. We like to think we live in daylight, but half the world is always dark; and fantasy, like poetry, speaks the language of the night. 
Ursula K. Le Guin, The Language of the Night: Essays on Fantasy and Science Fiction, 1993, HarperPerennial, p.6

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 上記は、米国の著名なSF・ファンタジー作家の言ですが、同じことを指さしているように私には思われる日本の詩人の言葉があります。

日常用いているありふれた言葉が、その組み合わせや、発せられる時と場合によって、とつぜん凄い力をもった言葉に変貌する。そこにこそ、「言葉の力」の変幻ただならぬあらわれがあり、そこにこそ言葉というものを用いることの不思議さ、恐ろしささえあるということだ。なぜこういうことが生じるのだろうか。

結局のところ、事柄は次の一点に帰着するだろう。つまり、われわれが使っている言葉は氷山の一角だということである。氷山の海面下に沈んでいる部分はなにか。それは、その言葉を発した人の心にほかならず、またその心が、同じく言葉の海面下の部分で伝わり合う他人の心にほかならない。私たちが用いている言葉は、そういう深部をほんのちょっぴりのぞかせる窓のようなものであって、私たちはそれをのぞきこみながら相手の奥まで理解しようとたえず努めているのである。
大岡信『ことばの力』花神社(1987年) 、pp.20-21

 すなわち、大岡信が言うところの「氷山の海面下に沈んでいる部分」をファンタジー作家や詩人が言語化したもの、それが、Le Guin のいう「夜の言葉」なのではないか、ということです。同じ事態を Le Guin は「翻訳」とも言っています。

ほとんど同じ形で、と言っても芸術には普遍的に当てはまることなのですが、作品化されたファンタジーは、言語領域のイメージと論理的な叙述形式に翻訳された、無意識世界の知覚や直観 ―身体言語、夢の素材、原初的な思考過程― であると言えるでしょう。この特質は、その極度の私的性にも関わらず、わたしたちの誰もが―英語圏の者であろうとウルドウ語をしゃべる者であろうと、また五歳であろうと八十歳であろうと、すべての人間が共有していると思われるものです。魔女、竜、英雄、夜の旅、協力的な動物、隠された宝物‥‥わたしたちはみな、それらを知っており、認知することができます(なぜなら、ユングが正しいとするならば、これらは深部に潜む本質的な思考の様態を表象しているものだからです)。現代のファンタジーはこれらを現代の言葉に翻訳しようという試みなのです。
アーシュラ K. ル=グイン『夜の言葉』(スーザン・ウッド編、山田和子・他訳)1985年サンリオSF文庫p.8

 再び、大岡信の言葉にも耳を傾けてみましょう。

 ある人間、ある事象に対してかたくなに拒絶的な態度をとることによって、かえって鮮烈に考えや気持を伝えることができることもある。そういう点から眺めると、人間の心には、無数の扉があって、ある扉はたえず開かれたり閉じたりしているのに、一生に一度か二度しか開かない開かずの扉もまたあるという風に思われてならない。

 その開かずの扉を開くか開かないかということは、その人にとっては大事件なのである。その開かずの扉が何らかのきっかけで開くときに生じる他者との全く新しい関係、それこそが、かけがえのない「コミュニケーション」の姿のように思われる。それは、ある心と別の心との間に、とつぜん新しい橋がかかることに他ならない。それが人を幸福にするかしないかは一概に言えない問題だが、少なくともその瞬間、人は自分自身について、あるいは相手について、新しい発見をする。暗い部分に光がさしこむ。つまり、ノヴァーリスの言葉にもどっていえば、「見えるもの」にさわっている「見えない」ものが見えてくる。私たちは日常おびただしい「コミュニケーション」の網目の中を生きながら、心の底では絶えずそういう瞬間、この「もう一つのコミュニケーション」を渇き求めているのではないだろうか。
大岡信『ことばの力』花神社(1987年) 、pp.24-25

※下記、参照。
存在するものは「知り得るもの」だけではない(1): 本に溺れたい
存在するものは「知り得るもの」だけではない(2): 本に溺れたい
存在するものは「知り得るもの」だけではない(3): 本に溺れたい
存在するものは「知り得るもの」だけではない(4): 本に溺れたい
存在するものは「知り得るもの」だけではない(5): 本に溺れたい

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