攻撃誘発性としての vulnerability/ vulnerability as an attack provocation
生身の人間は、誰も傷つきやすい(vulnerable)ものです。素肌を何かちょっとした硬いものに引っかけるだけで、肌は切り裂かれ、場合によっては鮮血が出ます。小さな子どもは、活発であればあるほど家に戻るころには、膝小僧や肘の一つか二つは、擦り剥いて帰宅します。また、昨今のように、雨のせいで寒暖の変化が激しいと、薄着で外出すると、鼻水が出たり、クシャミをしだしたりしてしまいます。
山口昌男『文化の詩学Ⅰ』2002年9月岩波現代文庫〔87〕
一方、公園でベンチにすわり、顔を下に向けると、たまたま足下に蟻がいたので、それを何とはなしに、靴裏で踏みつぶしたりした幼い頃の経験のない、という方は少ないのではないでしょうか。また、私は、車を運転していた頃は、どういう訳か気が大きくなりがちで、前方を「法定」速度で走っている車があれば、(外に聞こえないことをいいことに)車内で罵倒したり、走行する自転車を「危ねぇなぁ」と(密かに)罵ったりする傾向がありました。実際に危険なのは、自転車に対して、自動車を運転している自分なのに。
このように、自己の傷つきやすさとしての vulnerability は、それ自体が即、他者からの攻撃誘発性としての vulnerability に転移する可能性は否定できません。DVにおける、親による子どもへの虐待や、夫から妻への暴力も、相手が反撃(報復)できない状況下において、相対的に力の弱いものの vulnerability が、「傷つきやすさ」から「攻撃誘発性」に相転移することが暴力をエスカレーションさせる側面はあり得ると思います。
歴史上の虐殺(genocide)では、特別に暴力的で悪辣、無慈悲な悪人、というよりは、一般市民、普通の庶民がその蛮行の主体であることが見られます。
近いところで言えば、関東大震災[1923年(大正12)9月1日午前11時58分発生]における朝鮮人・中国人の虐殺があります。約6000名の朝鮮人が虐殺されたと推定され、また中国公使館の調査(1923年時)によれば、中国人の行方不明者は約160~170名に上っています。〔小学館日本大百科全書デジタル版、木坂順一郎筆「関東大震災」〕
ヨーロッパでは、歴史上繰り返されてきたユダヤ人虐殺が典型でしょう。そこではユダヤ人はキリスト教徒にとって常に「攻撃誘発的」vulnerable 存在でした。ユダヤ人思想家レヴィナス Emmanuel Levinas が自己の倫理学の中心に vulnerability を据えるのも当然と思われます。
vulnerability は、人権の実存的条件の一つですが、同時に、普通の人間(自分自身)が、虐殺(genocide)に加担してしまうメカニズムを考察する一つの重要な視角です。
〔参照〕
1.H.L.A.ハートの「自然法の最小限の内容」(H.L.A.Hart "The Minimum Content of Natural Law"): 本に溺れたい
2.ヴァルネラビリティを巡る、パスカル、レヴィナス、吉野源三郎(Pascal, Levinas and Yoshino Genzaburo On Vulnerability): 本に溺れたい
3.山口昌男『文化の詩学 Ⅰ』岩波現代文庫2002年、pp.228-64、VIヴァルネラビリティについて―潜在的凶器としての「日常生活」―
4.攻撃誘発性としてのvulnerability、を隠れた主題とした、短編小説の傑作については下記参照(20230825追記)
小説「ジョゼと虎と魚たち」(田辺聖子/1984年)①: 本に溺れたい
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