徂徠、カーライル、そしてニーチェ/ Ogyu Sorai, Carlyle, & Nietzsche
この三者に共通するのは、凡庸さへの嫌悪であり、英雄・超人への嗜好です。前者はロマンティシズムと共鳴し、後者は反デモクラシーに相即します。
儒家思想の荻生徂徠とromanticism がどう結びつくのかと訝しむ方もいらっしゃるでしょうが、徂徠の愛弟子の服部南郭(1683―1759)は、徂徠Schuleの詩文派リーダーかつ優れた漢詩人で、日野龍夫によれば、
京都の商家に生まれ、少年時代に江戸へ下った。初め和歌を学び、18歳のころ柳沢吉保 に歌人として召し抱えられたが、すでに吉保に仕えていた儒学者荻生徂徠を知り、入門するに及んで漢学に転向した。1718年(享保3)柳沢家を去って終生自由な境涯で詩作にふけり、享保~宝暦期(1716~64)漢詩壇の指導的立場にあった。徂徠と異なり政治的関心を抱かず、文学、芸術を通じて自我や個性を伸ばす生き方を追求し、祇園南海 、柳沢淇園らとともに文人意識の確立者とされる。『唐詩選』を初めて校訂出版したことでも名高い。 小学館日本大百科全書ニッポニカ「服部南郭」の項より
『唐詩選』の校訂は、徂徠ゼミナールにおける輪読形式、いわゆる「会読」メソッドで行われたものです。「会読」はこの徂徠ゼミからその後日本各地の読書会に広がった知的テクノロジーです。現代日本においても「知的生産の技術」として脈々と受け継がれています。下記参照。
※「会読」を巡って: 本に溺れたい
徂徠先生は、弟子に道徳、倫理を一切説きませんでした。そんな無駄なことはしません。「人間の性格というものは生まれつきのもので、師が弟子を植木のように剪定することはできない。そんなことより、持って生まれた特徴を矯めずにそのまま素直にのばしてやることが、本人のためにもなるし、ひいては社会に役立つのだ。」という《気質不変化説》を持してました。これが徂徠Schuleが急成長する要因でしたし、徂徠亡き後、Schuleが自然消滅してしまう原因でもありました。この思考はまさに「人間性の解放」であり、romanticism そのものでしょう。
こういう傾向が強い、徂徠詩文派であったため、初唐・盛唐に偏愛した『唐詩選』が選好されたのは当然で、そのため現代日本人が唐詩といえば、『唐詩選』ということになります。しかし、現代中国人の唐詩の常識的テキストは、唐代全体に均衡のとれた『唐詩三百首』(1736~95成立)で、この点、中国人と唐詩を語ると話が合わないことになります。「作られた伝統」の典型ですね。
Carlyle はヴィクトリア朝19世紀を生き延びたロマン派で反デモクラティック、NietzscheもCarlyleが大好きでした。ということで、徂徠、Carlyle、そしてNietzscheは、かなりメンタリティの部分で共通点があり、彼らは anti-democracyである点で、同類です。romanticismとanti-democracyの内的連関は、もう少し語る必要がありますが、本日は資源枯渇したので次の機会に考察することにします。
※弊記事をご参照
1)19世紀徳川日本における民の力量の増大(3): 本に溺れたい
2)徳川日本の知的文脈とアブダクション史学(改訂 20230103)/ Intellectual Context in Tokugawa Japan and Abduction Historiography(revised 20230103): 本に溺れたい
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コメント
お返事ありがとうございます。
私は最近思うのが「理想や理念は仮だ」ってこと。
因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり
て、龍樹が、いったらしいです。
その「仮」で「仮の真理」なりが「理念・理想」もしれない。
その理念なり理想に偏ると、それ自体が理念・理想を破壊する。。。
昔日の社会主義とかナチスとか、今のリベラル派のカラー革命やそれに続く似非民主化運動とそれによる軍事侵攻・・・
でも、その理念・理想を放置していると、それも「現実に埋没」して、その現実っていうか、自らの強欲と過ちに飲み込まれてしまう・・。
本当に難しいですね・・
>劉秀は、理念から演繹する理想主義者ではなく、すべてを体験から帰納的に考える現実主義者である。
>劉秀はもともと世話好きで、人を支えることを何よりも楽しみとする人間であった。
http://liuxiu.web.fc2.com/liuxiu/42.htm
こんな感じでいけたらいいのだろうが、これはこれで結構難しいですしね・・・。
投稿: 遍照飛龍 | 2023年1月10日 (火) 12時09分
遍照飛龍 様
弊記事にコメントをありがとうございます。
>まあ「凡庸」とか「優秀・超人」てのは人間の当座の尺度。
>宇宙也自然からみたら、本当のところは「わけわかめ」なり「そんなに安直ではない」
おっしゃる通りです。
一方、徂徠、カーライル、ニーチェは、ともに「神(super natural)殺し」をした御仁たちです。徂徠は、宋理学(朱子の理神論)を血祭にあげました。そして人間には手の届かない(空虚な)天上ではなく、あくまでも地上に super なものと求めた結果、「超人 superman」や、歴史的に実在した(はずの)「英雄」を祭り上げた訳です。
「神」「宇宙」「自然」を呼び出さず、さりとて「超人」「英雄」といった「イワシの頭」にも叩頼しない。「団栗の背比べ」の匹夫の地べたに這いつくばったまま、「理想」や「理念」を構想する、などという離れ業が可能なのか。
これが、徂徠、カーライル、ニーチェを反面教師とした教訓です。
投稿: renqing | 2023年1月 8日 (日) 20時28分
最近思うのは
「凡庸さなくて、超人や英雄も存在し得ない」
あるいは
「超人や英雄は、凡庸な人たちに支えられている」
て感じの事。
凡庸さに徹するのも、それなりに超人や英雄でもあり得ると思う。。
て何となく。
まあ「凡庸」とか「優秀・超人」てのは人間の当座の尺度。
宇宙也自然からみたら、本当のところは「わけわかめ」なり「そんなに安直ではない」
て思いまして。
投稿: 遍照飛龍 | 2023年1月 5日 (木) 11時47分