« 自由と尊厳を持つのは、よく笑い、よく泣く者のことである(1)/ To have freedom and dignity is to be one who laughs often and cries often (1) | トップページ | 徳川思想史と「心」を巡る幾つかの備忘録(3)/Some Remarks on the History of Tokugawa Thought and the "mind"(kokoro「こころ」) »

2023年6月 6日 (火)

自由と尊厳を持つのは、よく笑い、よく泣く者のことである(2)/ Freiheit und Würde haben diejenigen, die oft lachen und oft weinen (2)

 Wer lacht und weint, ist frei, und weint, ist frei, und unter den Menschen besonders der, der viel gelacht und geweint hat.
Odo Marquard, Apologie des Zufaelligen : Philosophische Studien, 1986 (Reclams Universal-Bibliothek) S.135
マルクヴァルト『偶然性の弁護』1986年、p.135
( 笑う者は自由であり、泣く者は自由であり、人の中でも特によく笑い、よく泣いた者は、自由である。)

 私は、この言葉を眼にすると、自分は「最近、(大)笑いも、(大)泣きもしていないな。」と、ふと思ってしまいます。

 日常生活において、私たち市井の民は、だいたい理性的(当為的、合理的)に生きています。それで、自由でもあり、尊厳を持って生きている、と思います。

 しかし、「自由」と「尊厳」は、他者に対するとき試されるのではないか。他者の「自由」、他者の「尊厳」に対する感応は、理性ではなく、おそらく感情の側面でしょう。感情が生き生きと活発に動いていないと、多分、共感力(他者への想像力)が鈍磨する。そうすると、それを通じて自己の状態(日常生活)を鑑みる〔self-reflective〕機会を、見失いがちになる。こうなると、自己の自由、尊厳が部分的に侵犯されていたり、欠けていることに、想像力が働かない。自分が、何事か(何者か)に隷属しているかも知れない、奴隷となっているかも知れない、という怖れ(畏れ)、ということに思い至らなくなる。

 徳川日本では、「笑い」や「泣き」がそこら中に渦巻いていました。歌川国芳の浮世絵のような「遊び」が横溢していた。徳川日本人は、生粋の「放蕩もの」《libertin(仏)/freethinker(英)》だったとも言えます。日本人が糞真面目になったのは明治以降です。これは、維新政権を主導した中下級武士層が《寛政の改革》以降の、「朱子学的紀律化 Disziplinarität in der Zhuziologie」の影響をまともに受けた世代だったことが大きいと思われます。

 荻生徂徠は、現代的な見地からは、とんでもない国家主義者ですが、その一方で、「朱子学」が大嫌いでした。生来、圭角を持ってうまれてこざるを得ない人間を、四角四面に切り刻むからです。徳川の儒家知識人は、徂徠学を学ぶと人格が崩れる、と危惧し非難しました。徂徠先生自身、夜遊びが過ぎる弟子を、おお、そうか、そうか、あまり羽目を外すなよ、と受け入れてしまう人物だったのです。徂徠は評価が難しい人物です。それだけ、大思想家だったということなのかも知れません。
Ogyuh_sorai

※参照 自由と尊厳を持つのは、よく笑い、よく泣く者のことである/ To have freedom and dignity is to be one who laughs often and cries often: 本に溺れたい

|

« 自由と尊厳を持つのは、よく笑い、よく泣く者のことである(1)/ To have freedom and dignity is to be one who laughs often and cries often (1) | トップページ | 徳川思想史と「心」を巡る幾つかの備忘録(3)/Some Remarks on the History of Tokugawa Thought and the "mind"(kokoro「こころ」) »

西洋 (Western countries)」カテゴリの記事

法哲学・法理論/jurisprudence Rechtsphilosophie」カテゴリの記事

荻生徂徠(Ogyu, Sorai)」カテゴリの記事

コメント

遍照飛龍 様

弊コメントへの応答をありがとうございます。

「朱子学的紀律化の「市井的普及版」が、通俗道徳であった」
「この朱子学的紀律化の猛毒が『自己責任論による社会の荒廃と修羅化』の大きな原因」

上記の2点、重要なご指摘だと思います。この列島の19世紀は、百年間をかけた《朱子学的紀律化》の亢進だったのでしょう。
 テキスト化され、印刷物として、《朱子学》の一連の教育カリキュラムとして整備されたテキスト類は、武士中下位層にとっては自己と他者の統治(governance)のtextbookでしたし、庶民上層にとっては、自己陶冶(あるいはself-governanace)の指南書でした。庶民下層には、それらをより砕き、漢字かな交じり文にした、「実語教/童子教」や、商売などの実業的知識と識字教育を兼ねた、手習いの教科書の「往来物」等が爆発的に普及しました。しかし、一方で、庶民層の「こころ」の拠り所は、檀家制度を通じての「仏の教え」でしたから、《朱子学的紀律化》は、せいぜい、庶民上層の向学心/向上心/出世欲を刺激したに留まりました。儒家倫理と仏教倫理はそれぞれ現世志向と来世思考で、真逆でしたから、中下武士層が庶民相手に崇高な「国家に奉仕するための‘勤勉’倫理」を説いても通じません。この「‘こころ’の堤防orダム」が決壊したのは、維新期に《神仏分離/廃仏毀釈》の《文化大革命》の‘おかげ様’です。
 一方、中下位層武家の後身である士族層や上層庶民は、明治期において西欧文物を継受/翻案する知識人層を形成しました。そして、彼らの知的基盤は儒家思想(朱子学〔旧教〕/陽明学〔プロテスタンティズム〕)でしたので、西欧語の翻案/翻訳は、朱子学上の漢語が転用され、とりわけ幕末/維新期知識人には、西洋「哲学」は理解が容易な「倫理学」、キリスト教は「倫理」として受容され、幕末/維新期知識人における儒家漢語(朱子学/陽明学ターミノロジー)で置き換えられました。例えば、現代日本でも使用される「良心」は「conscience(en)」「Gewissen(de)」は、《孟子》告子章上の〈良心〉の転用である、という指摘や、カントの倫理学を陽明学の「良知」から説くことも行われていた、という指摘があります。
この19世紀の列島における庶民心性の《心変わり》が、近代日本人の《野蛮化》や1945年の列島の灰燼化という歴史的帰結と、無関係とは私には思えません。

投稿: renqing | 2023年6月11日 (日) 23時05分

お返事ありがとうございます。


ふと思うのが、

「通俗道徳」の発展・流布と、朱子学的紀律化の市井への定着が、意外と時期的に重なっている気がします。

どうも、相互に影響が有ったのかもしれません。

「自己責任論」による「社会の修羅化」てのに、どうも通俗道徳の母体かもしれない「朱子学的紀律化」が大きいと思えます。
無論、そくそれって訳ではないですが、心学者とか大原幽学とかの系統の人も、朱子学的紀律化の影響なり余波は受けているのだろうし。

朱子学的紀律化の「市井的普及版」が、通俗道徳であった・・て気がします。

儒学全部を敵視する風潮もありますが、この朱子学的紀律化の猛毒が「自己責任論による社会の荒廃と修羅化」の大きな原因とすると、それも間違いではない{言いすぎだけど}とおもえます。

投稿: 遍照飛龍 | 2023年6月10日 (土) 12時09分

遍照飛龍 様

コメント、ありがとうございます。
光武帝、いいですね。
「自由」である、ってことが、結局、「笑」えたり、「泣」けたりすることだ、と生来わかっている人物なのでしょう。大人物です。

「ユーモア」については、三島由紀夫も言っています。

「 これ(=風刺のこと。renqing註)に反して、ユーモアは人間生活の内部における潤滑油のようなものであります。それも緊張に際して行動の自由を奪われる人間の窮屈な神経を解きほぐし、生活上の行動に対して自由な楽な気分にしてはげますものであります。ですから、イギ リス人は戦場において厳しい戦闘のさなかにもユーモアの精神を発揮します。ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のように相伴うもので、ユーモアとは理知のもっともなごやかな形式なのであります。ドイツ人はいかにも男性的尚武の国民として知られていますが、ユーモアの感覚の欠如している点 で、男性的特質の大事なものを一つ欠いているということができましょう。
三島由紀夫 『文章読本』 中公文庫(1995) 、p.219」
下記、ご参照
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(芭蕉): 本に溺れたい
https://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/10/post_a3fc.html

投稿: renqing | 2023年6月 9日 (金) 12時01分

後漢の光武帝が、やたらと冗談が好きだった。て。

http://liuxiu.web.fc2.com/liuxiu/42.htm

http://liuxiu.web.fc2.com/liuxiu/49.htm

なるほど。て思う。

投稿: 遍照飛龍 | 2023年6月 8日 (木) 20時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 自由と尊厳を持つのは、よく笑い、よく泣く者のことである(1)/ To have freedom and dignity is to be one who laughs often and cries often (1) | トップページ | 徳川思想史と「心」を巡る幾つかの備忘録(3)/Some Remarks on the History of Tokugawa Thought and the "mind"(kokoro「こころ」) »