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2023年8月30日 (水)

徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠]

以下に転載する文は、いまから49年前の対談の記録です。中央公論社から半世紀前に全50巻で出版された叢書『日本の名著』中の、第16巻「荻生徂徠」付録に掲載されたもので、この巻の編者尾藤正英氏(徳川思想史)と日野龍夫氏(徳川文学史)のお二人による対談です。ご両人とも既に鬼籍に入られておられます。

大日本帝国の「アジア・太平洋戦争」が、1945(昭和20)年に、連合国軍への無条件降伏で幕を閉じて以降の約25年間、石油ショック以前の、いわゆる「戦後」期において、徳川期の政治思想史における荻生徂徠像は、1952年に出た、丸山真男著『日本政治思想史研究』東京大学出版会(ただし、収録された論文はすべて戦時下に発表された業績)の強い影響下にあるものでした。それは要するに、モダンな、白「徂徠」だったと言ってよいでしょう。徳川日本の政治思想史の展開において、'modernization' の文脈から肯定的に徂徠を位置づけたものでした。

この中央公論社の『日本の名著 第16巻』に収められた、尾藤氏の解説論文「国家主義の祖型としての徂徠」(以下掲載の講談社学術文庫版にも収録)が提出した徂徠像は、丸山氏の白「徂徠」とは真逆の、黒「徂徠」でした。その後、対談者の日野龍夫氏による《文学としての徂徠学派》研究も現れて、徂徠、および徂徠学派の文学運動としての側面からも光があてられ、戦後/高度成長期「徂徠像」は根本的に転換して今日に至っています。反民主主義思想家としての荻生徂徠、です。

つまり、この対談は、戦後の徂徠像の根本的修正に大きな影響を与えた、お二人の碩学の対談ということになります。それだけに貴重であり、また会話体ですから、議論の流れも理解し易いものになっています。徂徠の功(白い徂徠)と罪(黒い徂徠)をともに語っている点も見逃せません。私にとり、とりわけ興味深かった議論は、日野氏(下記日野氏著作にも関連論文収載)の語る、文学運動としての徂徠派、あるいは、自我解放の文学としての江戸期戯作、でした。

一方で、この対談が今後、活字化(テキスト化)される可能性は限りなくゼロに近いでしょう。著作権継承者たちはいらっしゃるでしょうが、対談でもあり、お二人の拾遺集のようなものが編まれても、複数の著作権がからむため、まず日の目を見ることはないでしょう。そのため、このまま歴史の絨毯の下に埋没してしまうのを恐れ、不肖私がデジタルテキスト化致しました。著作権継承者の方々から削除要請がくれば従いますので、それまで掲載させて頂ければ幸甚です。

荻生徂徠「政談」 講談社学術文庫2013/1
江戸人とユートピア 岩波現代文庫2004/5
日本の国家主義—「国体」思想の形成 岩波書店2014/5
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徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)
中央公論社刊 昭和四十九年十二月『日本の名著 第十六巻 荻生徂徠』付録44

 日本の近代と徂徠

日野 私が解説を拝読しまして、興味ぶかく感じましたのは、徂徠が人間を社会のなかでとらえていて、それが社会に対する個人の自主性を見失う面があるということをはっきり指摘なさっていらっしゃることですね。丸山真男氏が徂徠のものの考え方の近代的な面を高く評価されて、一般的にはそういうイメージで受けとられていると思いますが、徂徠の思想の違う側面をお書きになった解説だと思います。人間を社会のなかでとらえるということは、人間の存在価値を、個別的な社会的立場や職分のなかに見出そうとすることで、それは人間を画一的な道徳規範から解放するという面があると同時に、人間の価値を職分のなかにおいてしか見ないという側面も含むわけですね。その辺が徂徠の人間のとらえ方の、いちばん問題になるところだろうと思いますが、それが非常に画期的なとらえ方であると同時に、また危いとらえ方でもあったという指摘が、ユニークだと思いました。

尾藤 従来の徂徠に対するイメージを少し違った角度からながめてみたいという考えがあったことは事実です。徂徠が日本の近代への曲がり角に立った思想家だということは、別に間違いではないと思いますが、日本の近代というものが持っている、一つの特殊性、ゆがみというものが徂徠の近代的な思想といわれるもののなかにも、見出されるのではないかということを考えてみたかったわけです。『政談』巻一に、例の土着論が論じられているわけですが、あれにしても、ずいぶんきびしい統制です。あのとおり実現されたら、一種の警察国家みたいなものができてしまいますね。それも一つの近代国家のタイプかもしれませんが、われわれの考えている近代のイメージとは、かなりズレてくると思いますね。従来の研究では、あまりその点には注意が向けられなかったという感じはいたします。

日野 抽象的なレベルでの、徂徠のものの考え方が取り上げられて・・・。

尾藤 そうなんです。制度を立てかえるという考え方そのものだけが注目されて、具体的にその制度なり礼楽なりを定めると、どういう社会が実現されるのかというところは、はっきりつかまえられていなかったかもしれませんね。

日野 人間を職分において、把握するという考え方ですね。これはほんとうに徹底的なものだったという印象を受けるんですけれども。

尾藤 それをいい意味で言えば、人間を個性においてとらえるということになって、生まれつきの素質を伸ばして個性を完成していくことが、徂徠の教育論の眼目ですから、その点では非常にすぐれた教育論、ある意味では現代にも通用する教育論だろうと思いますが、やはりそこに人間としての平等な本質とか普遍的な価値とかいうようなものはあまり重視されていないという、逆の側面がどうしても出てくるのではないでしょうか。

日野 人間を職分としてとらえるということが徹底したために、職分を越えた価値というものを人間のなかに見出さないというように、思想が展開していってしまったという気がいたします。

尾藤 徂徠は人間の本性というものは互いに親しみあって、互いに助け合うものだと言っていますでしょう。あれが人間の一般の共通な本性というものについて、徂徠が述べているほとんど唯一のものだろうと思うのです。これはいわば社会的な本性ですね。社会の一員として生きていくことが、人間らしい生き方であり、そこに生きがいもあると考えるような人間観ですね。

日野 徂徠は人間の存在価値を道徳の面から考えたくなかった。非道徳・反道徳に見えるものであろうと、とにかく存在するすべてのものに価値を認めたかった。まず最初は、そこから出発したと思うのですが。

尾藤 道徳の問題を日本の現実のなかでのこととして考えると、いわゆる道学先生タイプの人間を生み出す場合が多いのですね。他人に対して寛容でなく、型にはまったものの見方しかできないような、堅苦しい人間になってしまう。道徳がそういう形でしか考えられないような社会的な土壌を目のあたり見ているから、徂徠は既成の道徳思想に対する不信感を持ったのでしょう。

日野 だから人間の存在価値を道徳以外のところに見出そうとすると、職分になってしまう。そうすると人間の内在的な価値をかえって見失うというようなことに変わっていく。そういうことではないでしょうか。

尾藤 それが二律背反ではなくて、両者が調和できることが、ほんとうは望ましいのだと思いますけれども。

日野 道徳には人間を抑圧すると同時に、人間的な価値の根源でもあるという面もあると思います。だから道徳を否定したがために、人間の内在的な価値までも、徂徠はいっしょくたに否定してしまったような気がします。

尾藤 そうですね。朱子学を徂徠は徹底的に批判するわけですが、朱子学では、理一分殊ということを言います。社会の中での職分はさまざまに異なっていても、人間としての根本の原理は一つであるという考えは、役割の違いと人間の根源的な普遍性とを調和させようとした思想だろうと思うのです。しかしその思想が日本に入ってきた場合に、そのとおりに受けとられ、生かされたかというと疑問であって、現実にはそうではなかった。むしろ、そういうことは不可能だという認識を徂徠は持ったのではないでしょうか。

日野 道徳が人間的な価値であるような面が、近世社会ではあんまり表に出ることがなかった。

尾藤 近世社会自体が、士農工商という職分の体系になっていますしね。

日野 理想的な形の朱子学というものが機能し得なかったために、結局、徂徠は悪い面の朱子学を否定することによって、朱子学のいい面も汲みとり得ないようになってしまった。それが徂徠学の悲劇的な矛盾であったという気がいたします。

尾藤 これはおそらく現代にも通ずる大きな問題であって、たとえば教育論として言えば、個性に応じた教育ということが職能教育という形になると、それ自体が差別を生み出す機構になります。といってまた、その逆に平等といえば、とかく一律の教育内容を押しつけることのように考えられがちです。これは職業の種類にかかわらない、人間の尊厳という観念が日本の社会では乏しいためでしょう。このディレンマに対し、徂徠の考え方は一つの解決策を提示した形になっているのでしょう。

 

徂徠における政治と文学

 

日野 徂徠における、存在するすべてのものに存在の意味を認めたいという動機が道徳を拒否したために、結果としては非常に統制社会になるかもしれないような政治論にいかざるを得なかったということは、例の古文辞学という文学論についても、まったく同じ関係で、出ているように思います。本書にも収録されている「長崎の田辺生に答える書」という『徂徠集』の文章のなかで、「詩は情語なり」—詩は感情の表現だと言っていますね。広瀬淡窓の『淡窓詩話』にも、同じ「詩は情語なり」という言葉があって、文学が感情の表現であるという考え方では、淡窓も徂徠も、いちおういっしょだったと思います。ところが、徂徠は感情をストレートにではなく、擬古的な表現によってあらわさなければいけないというわけですね。淡窓は実景・実情の尊重、写実主義、個性をそのまま出すという、近代に近い文学観を持ちます。同じように詩は感情の表現だと言いながら、あらわれ方が徂徠の場合は擬古主義になり、淡窓の場合には実情をそのまま出すという主張になる。その違いの問題なんですが、淡窓は詩人であると同時に倫理学者で、一方では詩は道をあらわすものであるということを言っているわけです。同じように詩は感情の表現であると言いながら、淡窓が写実主義の主張をなし得たのは、自分の心に内在的な価値があることを信じていたからだと思います。

尾藤 自分の感情を率直に表現することに意味があると考えるわけですね。

日野 ところが徂徠は、そういう自信が持てなかったと思うんです。人の心が自由奔放な活動をするものであることを、必然的な事実としてきわめて寛容に認めます。けれども「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」という擬古的な表現、その背景には先王の礼楽があるわけですが、すでにある古典的な価値にそった形で表現しなければ、自由な心というのは、正当性を獲得し得ない。だから、徂徠の政治論と文学論は、朱子学のもとでは不当なものでしかなかった、人や心の、時として非倫理的であるようなあり方を、あるがままの事実としてまず承認します。しかし次の段階でそれに価値づけ、正当性を与えようとすると、すでにある権威のワクにそった形で表現した場合でないと正当性は獲得できないということになる。

尾藤 『学則』の最後の箇条で、「天命を知る」と言っていますね。与えられた運命というものを知ってそれに順応することが人倫の正しい生き方であると。運命というのは、要するに職分だと思うのです。与えられた役割というものを自覚して、それを果たしていくこと、徂徠自身としては学者という仕事が職分ですね。『学則』付録の手紙のなかで、儒者の業はただ古人の道というものを明らかにして、それを述べ伝えるだけで、それを実行することは、自分の仕事ではないと言っています。つまり政治家の仕事になるわけですが、それはまた別の職分だというふうに、かなり割り切って考えているのですね。各人の個性を生かすようなワク組がどういうものかということを、学問的に探究する仕事が職分だと徂徠は考えていたようです。ですから自分自身の生き方が、先王という、高遠なものと直接に結びついてくるのではない。

日野 職分に安定するという公的なあり方においてはおっしゃるとおりだと思います。だけど一方、私的な面というか、自分の心の次元で言えば、たとえば学者としてあることが自分の天命だとします。学者のイメージに自分を当てはめるということだけでは、すまないようなものがあったのではないかという気がします。先王の礼楽、それの文学的な対応物である古典的形式の詩文にそって、心の次元の自分を表現したいと考えたのではないでしょうか。そのように考えないと、徂徠の文学へのあの旺盛な関心を理解できないように思います。

 

リアリストとしての徂徠

 

尾藤 徂徠の欠点ばかりあげつらうようになってしまいましたが、これはもちろん、徂徠の偉大さを前提にしてのことで、江戸時代の思想は徂徠以前と以後とに二分されるといってよいほど、その影響力は大きいのですが、そればかりではなく、たとえば『政談』などは、幕府政治の改革論という歴史上の問題を離れて、現在のわれわれが読んでも、たいへん面白い本なのではないかと思いますね。社会生活の知恵というか、たとえば人間を見分ける方法、人材を登用する際の心がけなどを具体的に書いています。まったく現在の政治家とか教育者とかに、読んでもらいたいと思うところもあり、われわれ自身の生き方の参考としても、教えられるところが多い。

日野 学者が書いた政治論でそのとおり政治に実行できそうなものというのは、徂徠以前にはないわけですか。

尾藤 ありませんし、徂徠以後でもそんなに多くはないと思います。何かよりどころになった文献があって、それを当てはめるという類の議論が多いのですが、徂徠の場合は、自己の目で、現実社会を観察し、どういう点に欠陥があるかということを的確に指摘しているように思います。

日野 ただ、ないものねだりかもしれませんけれども、人間の個性を尊重することが、悪く言えば、一種の愚民観じゃないかという気がしないでもないんですが、いかがでしょうか。人間をリアルに認識する能力は非常にすぐれているわけですが、人間をあまりにもリアルにつかむために、一方では人間を尊重すると同時に、人間を、どこかでタカをくくっているというか、軽蔑しているような面があるような気がしますが。

尾藤 新井白石などは、そういう意味では理想主義者ですから、現実を正確にはつかんでいなかったと批評されることになるのかもしれません。徂徠は白石の時代に幕府の法律の文言が悪くなったといっています。白石のは説得調なんです。幕府の「武家諸法度」をはじめ、いろいろな法令を出す場合、こういう理由があるから、こういうふうにしなければならないということを説明するわけです。徂徠はそういうことは必要がないといい、命令すべきことははっきり命令すればよいと言っています。

日野 『政談』巻二で、みんなが同じ服装をしていると、身分の違いが一目でわからない。そのために身分の上の者は、自分を目立たそうとして、わざと威張りちらすから、下の者は必要以上にへつらう。そういうことをなくすために、身分によって服装をかえたほうがよい、ということを言っていますね。この議論は現実的ではあったのでしょうが、徂徠は近代的な人だという先入観をもって読むと、はぐらかされたような感じをもちますが。

尾藤 服装の差別の問題は、それがすなわち「礼」の現象形態ですから、徂徠の思想のなかでも、とくに中心的な部分をなすものでしょう。徂徠が「道」の内容として重んじた「礼楽」あるいは「礼」を、具体的に現実の社会のなかで実施する場合にどういう形であらわれるのか。それが『政談』巻二、巻三あたりで語られていると思うのですが、これまでの徂徠論はそういう面の関心があまり強くなかったと思います。

日野 徂徠的な、たとえば道徳はあきらめてしまって、社会秩序で近代へ近づこうというコースだけが、唯一の可能性だったのではないという気はします。白石もそうでしょうし、徂徠と同じころの柳沢家の家老だった柳沢淇園が『ひとりね』のなかで、女遊びでも大切なのは誠—淇園は朱子学的な土壌で育った人ですから、朱子学の誠だと思いますけれども―だと言っています。朱子学の理というものを道徳的な強制の手段に使わないで、人間の内在的な価値として生かしていくという、ものの考え方から出てくる近代というものがあってもよかったという気はします。

尾藤 そうですね。実際にも明治になって、たとえば自由民権思想が入ってきて、運動が起こってきます。あれにつながっていくのはむしろ朱子学ですね。

 

徂徠学派の評価と影響

 

日野 私は徂徠学というのは、要するに一種の表現論だと理解していました。自分を表現する。社会的にある職分をつとめるのも自己表現であり、文学作品をつくるというのも自己表現ですね。それがわれわれだったら、まず自分というものがあるわけで、表現の媒体そのものには、価値を認めない。手段にすぎないわけですが、徂徠の場合には、媒体—先王の制度や古文辞—が価値を持っていて、自分のほうには価値がない。そういう形での表現論だと思うのですけれども。

尾藤 そうですね。徂徠の「道」という言葉は、たいへんわかりにくいのですけれども、そういうふうに説明していただくと、多少わかりやすくなるような感じもいたします。徂徠の「道」というのは、個人の生き方ではなくて、先王が作った社会秩序—個人を越えた権威を持つ、全体としての大きなワク組みたいなものですね。そのなかで人間は、それぞれの個性に応じた職分を通して先王の秩序の実現に寄与し、またそのことによって自己を生かしうるということを徂徠は言いたいようですが、それと似ているというか、完全に同じパターンで、文学を考えていると言っていいようですね。文学方面からそう言っていただくと、全体の性格が非常にはっきりしてくる。

日野 「道」を、そういう個人を生かすものだけれども、それは個人を越えた権威があることによってそうなのだというふうに考えると、それがどのような形で自我を解放したかが問題になりますが、まず徂徠や徂徠学派は普通には、道徳を否定する放蕩無頼のやからだという受け取り方が近世社会の中では行われたと思います。

尾藤 感情を解放することがそういうものを是認する結果になったということで、悪評を招くのでしょう。

日野 一方にそれを喜ぶ連中もいるわけです。だから要するに寛容主義、道徳否定の学派であるという評価が与えられる。

尾藤 それは文学的には、かなり大きなみのりをもたらすと考えてよろしいわけでしょうね。

日野 文学はそれ以前は、だいたい暇つぶし・・・。

尾藤 玩物喪志であると。

日野 そういう観念がありますから、文学は知識人があんまり真面目に打ち込んではいけないものだったのに、屈折したポーズは伴いつつも、文学を通して自己を表現することにとにかく一生かけてもいいということになったのは、徂徠以後だと思います。それは大きなことだと思います。

尾藤 徂徠自身には、おそらく文学に一生をかけたつもりではないのでしょうが。

日野 『廓中掃除』という洒落本がありますが、それに祖礼(そらい)という儒者が出てきます。吉原の古文字屋という茶屋へ遊びにいく。祖礼先生は、黒羽二重に黒縮緬の羽織の、粋なみなりで来て、けっこう上手に遊ぶというストーリーです。知識人が屈折した意識で、自我を追及するという文学運動が、宝暦ごろから生まれる。自分ではそうは意識していなかったと思いますが、徂徠の文学論が結果としてそういうものを生み出したために、文人たちが徂徠に自分たちのあり方の元祖として親近感を感じるということが、洒落本に徂徠を登場させるということになるのだと思います。解説で引いておられた「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の句—あれは享保期の江戸の俳人で桂林という人の句ですが―も、知識人の間にあった、徂徠に対する親近感のあらわれでしょう。

尾藤 安永・天明期というのは、知識人である幕臣たちが、することがないので、そういう遊蕩的な文学のほうに、全力を注いでいるというか、遊んでいるわけですね。そのためにかえって、いわゆる遊蕩文学だけれども、すぐれたものができたと中村幸彦氏が書いておられましたですね。

日野 それは遊び半分の形をとる屈折した形だけれども、どこかで真面目に自分というものを追及したいという志を文学が持ち得たということだと思います。

尾藤 そういうことでしょうね。

日野 普通、戯作者のなかでも、町人ではない、知識人出身の作者を前期戯作者と言いますが、前期戯作者はだいたい徂徠学末流の文人だとみてもいいと思います。

尾藤 なんとなく庶民文学というふうに概括的に考えたくなりますが、そうではないのですね。

日野 前期戯作の作者というのは、武士ないし、それに準ずる階層の出身ですね。市河寛斎は郷士で、沢田東江は町人ですが昌平黌に学んでいますし、太田南畝は御家人です。純然たる町人とは言えない人が作者ですね。

尾藤 そういう動きが起こってきたのは徂徠の影響が大きいのですね。

日野 まず人間の個性を認めようという考えが、徂徠にはあります。ところが個性は、それ自体としては正当なものではなくて、古典的なワクにはまったときに、はじめて正当なものであり得るというわけですね。そうすると古典的なワク、それは生活形態の上では、たとえば漢詩をつくるとか、文人画を描くとか、そういう行為ですね。そういう生活形態をとりさえすれば、どんな自由な心の持ち方でも許されるという意識が生まれます。そして、現実に志を得ない知識人がドッと文学・芸術に集まるという現象が生じてきた。その次の段階として、文人たちの自我は不可避的に、古典的なワクに盛り切れないほどに、膨張してしまいます。ワクのなかにあってこそ正当なのですから、文人は自己のあり方の正当性を失って、結局、自分たちは遊び半分でやっているのだという不真面目、遊蕩の意識に浸蝕されざるを得ないわけですから、屈折した形で、自我を追及するという姿勢が生まれてくる。知識人を文学に吸い寄せるとか、〝戯作〟の形をとりつつも自我を追及する志を文学が持ち得たとか、そんなことが徂徠学の結果として、出てきているということだと思いますね。

尾藤 それはやはり時代の雰囲気がかなり影響するわけでしょう。安永・天明期というのは、武士の立場から考えれば、とくに下級武士ですと身分制には束縛されているし、政治上に力を発揮することもできないわけですから。徂徠自身が生きた元禄期という時代は、まだ政治的な問題が一般の知識人にとっても意識にのぼるし、また考えたことを政治上に実現する希望もなくはないという時代だったように思います。その次の時期は、政治的な危機意識の失われた時期で、十八世紀の大部分がそうだと思います。

日野 危機意識がないし、知識人が政治に関与する可能性というのが、まったくなくなってしまう。

尾藤 十九世紀になると、また状況が変わってきて、今度は人材登用ということをほうぼうで言うようになるし、実際にその必要もあるわけですから。

日野 だから結局、安永前後というのは中間的な時代で、徂徠の経世策、政治への関心を受け止めることができないで、道徳を否定したという側面だけで徂徠学をとらえてしまった。

尾藤 そうなんですね。それで徂徠学の評価・定評ができてしまいますね。遊蕩の文学の道を開いたというような定評になってしまいましてね。

日野 いまから見ても、結果としていちばん面白い文学が生まれた時期ですから、結局、徂徠学というのは、近世にあってはそういうものとして、定着してしまった。

尾藤 しかし十九世紀になりますと、徂徠の学派そのものは解体してしまって、直接にはつながっていかないけれども、徂徠が生きていた時代と同じように、政治への関心が知識人のなかから起こってきて、忘れられていた徂徠の側面が復活してくる。具体的には国学や水戸学などの政治思想の中に継承されて、やがてそれが明治国家の形成に大きな役割を果たすことになります。解説に「国家主義の祖型」という、やや刺激的な題名をつけましたのは、その面が一般に忘れられているのではないかと思ったからです。

―一九七四・一一・八 虎ノ門・福田家にて―

※上記の対談テキストを、PDF化したものを貼り付けます。

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コメント

こんな話が

なぜ日本人はSNSで他者をバッシングし続けるのか...「日本人が世界一イジワルな理由」“強い不安遺伝子”と“正義中毒に弱い”という特徴がヤバすぎる
https://gendai.media/articles/-/114365?page=3

>日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。
>「人間の脳は社会の規律を乱す人を罰することを奨励するようにできています。実際、人を罰するとき、脳内ではコカイン中毒者と同じような反応を示すことが分かっています。この状態のことを『正義中毒』と呼びます。同時に脳が罰の対象者を人間以下の存在であると錯覚させる『知覚的非人間化』を行い、人間をより悪意ある行動、罰へと向かわせるのです」(ジョーンズ氏)

>そして、日本人はこの『正義中毒』に陥りやすいことが医学的にも分かっている。日本人は「不安遺伝子」と呼ばれるセロトニントランスポーターSS型を持つ人の比率が、他の国に比べて圧倒的に高いのだ。早稲田大学スポーツ科学学術院教授で、精神科医の西多昌規氏が解説する。

個性など「秩序を破壊するもの」って日本ではなりやすいのかもしれない。

でもそれは「内側の統制」には便利でも、対外となると「発想の画一化」「容易に分裂工作で分裂する」とか欠点もあると思えます。
またそれが「内側に生きる人間を生きづらくする」ってのもある。


あまり関係ないですけど、気になったので書きました。

投稿: 遍照飛龍 | 2023年9月 3日 (日) 21時24分

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