「明晰な文章」とはなにか/三島由紀夫(1959年)
鴎外は人に文章の極意を聞かれて、一に明晰、二に明晰、三に明晰、と答えたと言われております。これは作家の文章に対する一つの決定的態度であります。スタンダールが『ナポレオン法典』を手本にして文章を書き、稀有な明晰な文体を作ったことはよく知られていますが、実は最も素人に模写し難い文章、舌で味わうにはもっとも微妙な味をもっている文章は、こういう明晰な文章なのであります。何故ならばそれは無味乾燥と紙一重であって、しかも無味乾燥と反対のものだからであります。このような文章について、ハーバート・リードがこう言っております。これはホーソンの文体について言ったものでありますが、私にはこれが「明晰な文章」というものに関する、非常に明晰な定義であると思われる。
「よき文体の秘訣は明晰な思考であると、ときどき言われる。なるほど、論理的な精神は悪しき文章の陥る多くの陥穽をかならず避けるものではあるが、散文芸術のためには他の特質が必要である。たとえば、思考よりも素早い目や、言葉の個性的特質―その響き、大きさ及び歴史―に対する感覚的感受性が必要である。さらにもっと何かが―情況の全体性や完全性の知覚を意味する何かが―存在する。その結果、言葉や文章ばかりでなく、これをもっと大きな、もっと持続的な統一体へ総合編成することが可能となるのである。」
このハーバート・リードの言う「状況の全体性と完全性の知覚を意味する何か」、これこそが鴎外の文体の秘密であり、スタンダールの文体の秘密であります。こういう知覚をもたないものが、明晰な文体を志すとかならず無味乾燥で、味気ないかさかさの文体に陥ります。明晰な文体、論理的な文体、物事を指し示す何らの修飾のない文体、ちょうど水のように見える文体のなかにひそんでいる詩には、あたかもH2Oという化学式そのもののように、無味乾燥の如く見えながら、実は詩の究極の元素があるのであります。それは目に見えるキラキラした詩ではなくて、元素にまで圧縮された詩であり、抽出された詩であって、このような文体がもっているほんとうの魅力は、実は詩であり、ハーバート・リードの言う「全体的知覚」であります。また詩人のよく言うサンス・ユニヴェルセール(宇宙感覚)というものとも通ずるものでありましょう。
以上、引用は、
三島由紀夫『文章読本—新装版』中公文庫、2020年3月3日改版、pp.54-6、より。
文章読本、初出/改版、経緯
『婦人公論』昭和34年一月号、別冊付録、中央公論社発行
単行本 中央公論社 昭和34年6月
文庫 中公文庫 昭和48年8月
文庫 中公文庫 平成7年12月改版
〔註〕
1) 本記事の英訳版(English ver.)を本ブログに同時に掲載しました。ハーバート・リードから引用されている英語原文/出典に関心のある方は、そちらをご参照ください。
2) リードの訳文は、下記を参照。
ハーバート・リード『最後のボヘミア人』、飯沼馨訳、みすず書房、1955年、p.84、「14 ナザニエル・ホーソン」p.78-84
ハーバート・リード『芸術論集』増野正衛・飯沼馨/訳、みすず書房、1969年、「II ナザニエル・ホーソン」p.238-244
3) 三島のリードからの引用文は、高校時代から気になっていた。時折、自分でも調べるのだが全く不明。ここ15年ほどのインターネット上での情報環境の劇的向上で、個人でもかなりのことがわかるようになったので、近年また再アタックして、訳書、原本を5点ほど調べたが、皆目見当がつかず、手も足も出ない。ふと、東京都立図書館のレファレンスの利用を思いつき、依頼した。すると、一週間で、この年来の謎が氷解した。完璧なブック・レファレンス能力。素晴らしい。感謝感激雨あられ。皆さま、どうかこの素晴らしい図書館を使われますように。有難いことに、東京都以外の在住の方でも利用できます。本当に素晴らしいです。ありがとう、都立図書館さん。
4) フェノロサ、エズラ・パウンド、T.S.エリオット等の、イマジズムにおける「unity of image」とハーバート・リードの「a perception of the wholeness and integrity」の関連は、下記参照。
梅若実、エズラ・パウンド、三島由紀夫/ Umewaka Minoru, Ezra Pound and Mishima Yukio: 本に溺れたい
‘Unity of Image’ 、「能」から「Imagism」へ / 'Unity of Image' : from 'Noh' to 'Imagism': 本に溺れたい
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