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2024年7月20日 (土)

関 曠野「知は遅れて到来する ―ドラマにおける時間について―」(1985年5月)/Seki Hirono, Knowledge Comes Late, On Time in Drama, 1985

 ソポクレスの悲劇『オイディプス王』の冒頭で、神官がオイディプスにテーバイに降りかかった災厄について報告する。誰も知りえぬ原因によって今や作物は枯れ、家畜たちは死に、生まれぬ子の産褥に女たちはあえぎ、疫病が国中を荒らしまわっている。かつてスフィンクスの謎を解いてテーバイの人々を怪物から解放したオイディプスに、再び「社会科学者」および「法の執行者」として人民の救世主になるべき時が来たのだ。そして神官が説くオイディプスの使命は、演劇そのものの使命でもある。共同体の危機と苦悩なしには、演劇はその存在理由を失う。共同体が何かの原因でアブノーマルな状態にあること―そこに一切の演劇の発端がある。

 危機に直面した人間たちの共同体は、時間と歴史を鋭く意識する。もちろん共同体は、危機の到来によって初めて時間の支配に気づくわけではない。人間の社会は動物の社会と異なり、その成員が一定の時間意識を共有することによって統合されており、従って全ての人間社会において、人々の時間意識の在り方と社会組織の在り方は不可分なものといえる。だが危機に直面した人々は、彼らが日常親しんでいるこの社会化された時間が今や異常時の突発によって切断され崩壊しつつあることを知る。そしてこのような時間の次元における方向感覚の喪失ほど、人間を脅やかすものはない。そうなれば人は、崩壊と死へと向かう社会組織およびその時間意識とは対立し、それから脱却しながら、しかも時間の連続性の意識を新しい次元で獲得しなければならない。

 ドラマにおける時間の問題は、この危機にさらされた共同体の時間意識との関係から捉えられなければならない。言い換えれば、ドラマという劇場の中で生起する出来事の時間は、劇場の外で〈歴史〉として絶えず生起しつつある出来事の時間との相関関係においてのみ理解可能になるのだ。そして我々は作者・演技者・観客から成る劇場共同体が遂行する仕事が、極めてパラドクシカルなものであることに注目する必要がある。第一に、ドラマ上演の動機となるものは、危機に瀕し、時間の方向感覚を失った共同体の、時間の方向と連続性を再生させようとする希求である。しかもこの希求は、ドラマが劇場という特別な場所で上演される虚構の出来事であるかぎり、劇場の外を流れる世俗的=日常的な時間の連続性を断ち切ることによってしか充たされない。こうしてドラマは、日常的な時間の連続性とは明確に対立しながら、しかも時間の否定や超越ではなく時間の連続性に固執する。

 ドラマに固有の時間性とはいかなるものかという問いに答えることは、このパラドックスを解くことに等しい。そしてソポクレスはそのためのヒントを『オイディプス王』の中に残してくれている。ただしそれは、いかにも謎々の好きな古代ギリシア人らしいイロニーに充ちたヒントなのだ。周知のように「ドラマ」という語は、ギリシア語の原義では「行為」を意味する。また「劇場」を意味するギリシア語「テアトロン」の元来の意味は「見るための場所」である。ところがソポクレスのこの作品においては、ドラマの語義に反して主人公オイディプスは殆どアクションらしいアクションを見せない。彼は先王殺しの下手人を見出すべく弁じまくることに忙しく、劇中で身をもって行なうことといえば、針でおのが両眼を突くことだけであり、しかもこのアクションは舞台の外で行なわれる。そして「見るための場所」に集まった観客たちに対して、この作品は盲人となったオイディプスを示し、見ることの不可能性を暗示して終るのである。しかしながらギリシア悲劇を代表するこの作品につきまとう謎とイロニーにこそ、ドラマをドラマたらしめる時間性についての、天性の演劇人たる古代ギリシア民族の回答が秘められているのである。

      *

 ところでこの問題を取り上げる前に、重要なことを一つ想起しておこう。実は演劇という存在が理論的考察の対象となることは、西欧においてすら史上稀であった。西欧人はつい先日まで前四世紀の人間アリストテレスが書いた疑問だらけの演劇論を金科玉条としてきた。だがアリストテレスは演劇理論のみならず彼が手をそめた全ての学問領域において、西洋思想に恩恵以上に打撃を与えた人物なのである。とにかくこの博学ぶりをひけらかすことに熱心でしかも理論的思考能力の全くない哲学者の説くことは、万事眉にツバをつけて聞く必要がある。そもそもマケドニア人アリストテレスはアテナイの市民権を持たず、ポリスの一員として悲劇を観た可能性は少ない。私は彼が実際に芝居を観たことがあるかどうかすら疑っている。というのも、『詩学』には彼が過去に書かれた戯曲を書斎で読んで演劇論をでっちあげた節がうかがえるからである。この著作が作者中心の議論になっているのも恐らくそのためである。してみればアリストテレス以来二千二百年にわたる西欧世界の沈黙を破り、自ら演劇人として再び演劇を理論的考察の対象にとりあげたということだけでも、ディドロとレッシングがどれほど偉大な思想家だったか解る。

  そして今世紀が、アルト―、メイエルホリド、ブレヒトを旗手として、演劇のみならず演劇理論においても偉大なるルネサンスを経験した世紀たることの理由は二つある。第一に、十九世紀以来世界の至るところで権力の伝統的な正統性原理が崩壊して、全人類が空前の共同体の危機にまき込まれ、死と滅亡の恐怖と回生の期待が交錯する歴史的意識が大規模に覚醒したこと。そしてベルグソン以来の西欧思想がますます時計の時間とは区別された具体的な生の時間に沈潜する一方、現代の科学理論が絶対的、一義的、因果論的なニュートンの時間を葬り去ったこと。(1)
こうしてようやく二十世紀になって、我々はアリストテレスの亡霊から完全に解放され、ドラマの本性をめぐってソポクレスと対話することが可能となったのである。

  ところでドラマの時間は、明確な始まりと終りをもつ完結した時間である。この完結した時間によってこそドラマは虚構なのだといえる。現実の実人生と歴史の時間には、明白な始まりや終りは存在しない。俳優が不在のあるいは少なくとも彼ないし彼女自身ではない他の人間を演ずることが、ドラマを虚構たらしめているのではない。実人生においても、人間は多かれ少なかれ役割演技に参加しているのだ。いかなる演技にも擬態にも無縁な〈真実一路〉の人なるものがいるとすれば、それこそ驚くべきことであろう。従ってドラマは劇場の外の時間とは、一つの完結した時間という仮象によって対立していることになる。しかし、完結した時間の虚構性という点においてだけならば、ドラマはそれと往々混同されがちな遊戯および儀礼という現象とどこで区別されるのであろうか。ドラマに固有の時間性を、この二つの現象との比較をとおして考えてみよう。

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  ホイジンハは遊戯という現象を以下のように定義している。「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為もしくは活動である。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的な拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』という意識に裏づけられている。」(2)遊びにおいてルールの支配は絶対的である。同意され確立されたルールに背くことは、遊びの否定に等しい。ルールを厳守することによってのみ、人は遊戯が生み出す想像上の現実に自分を同化させうる。逆に言えば、このルールの専制は遊びの、美的ではかない、想像力に頼りきった性格に関係している。しかるにドラマにおいては人は俳優としても観客としても、虚構と現実の二つのレベルに同時に存在する。観客は役者が他者を演じているにすぎないことを百も承知しているばかりか、彼が役を「うまく演ずる」かどうかに注目する余裕すらもっている。例えば、ギリシア悲劇の場合、俳優の数は伝統的に、二ないし三人に制限されていたので、同じ人間がとっかえひっかえ複数の役を演ずることになった。またブレヒトは、わざと舞台の裾に出番待ちの俳優たちをはべらせ上演中の劇と彼らの姿を並行して見せるという実験を試みたことがある。このように役割演技の事実があらわになっても、ドラマに対する観客の興がそがれることはない。ドラマにおいては、遊びにおけるような想像上の現実を維持するためのルールの専制は存在しない。ドラマは遊びのように日常生活とは「別のもの」になりきることはない。反対にドラマの時間は、演技された虚構と日常の現実、舞台の上の出来事と劇場の外で生起している歴史の時間との間を絶えず往復している。ドラマは遊びとは異なった在り方で日常生活と対立するのだ。

  遊ぶ人間は時間を知らない。遊戯の一大特徴は、現実の歴史的形成とは全く無関係にいくらでも正確に反復されうる形式性にある。例えば前世紀に米国の田舎で行なわれた草野球も1984年に日本で開催されたプロ野球も、ゲームとしては全く同一である。そしてこの限りなく反復可能な純粋な形式性という点において、遊戯は儀礼に似る。両者は共に時間を否定し超越しようとする。しかしながら儀礼はその挙行に伴う厳粛な気分によって遊びと対立する。遊びに見られる想像力の自発性と歓びの感情は儀礼には縁遠いものであるばかりか、きびしい警戒と抑圧の対象ですらある。形式的なルールの専制は、儀礼においては遊びとは全く異なる動機付けに仕えている。というのも現在における行為そのものが目的である遊びと異なり、儀礼には権力秩序の維持という明確な目的があるからなのだ。

  ミルチア・エリアーデは言う。「祭に参加する者は神話の事件と時を同じうする。言い換えれば、彼らはその歴史的時間、つまり俗なる、個人的ならびに人間関係的時間の総和から構成される時間を脱出するそして常に同一であり、永遠性に属する太初の時へと回帰するのである。宗教的人間はくり返しくり返し神話の聖なる時に帰入し、〈過ぎ去ることのない〉起源の時を再発見する。〈過ぎ去ることがない〉と言う所以は、それが俗なる時間的持続に関与せず、幾度でも限りなく到達することのできる永遠の現在から成り立っているからである。」(3) 儀礼を執行する人間は、一つの方向をもち過去と現在に分裂した時間を意識しており、しかもこの原初的な歴史意識のゆえに彼らは現在を反復され再現された過去たらしめようとする。そしてこの企ては、伝承された共同体の枠組から逸脱する恐れのある歴史的個人をしっかりと規範により教化し社会に統合することを目的とする。再びエリアーデの言葉を借りれば、「すべて神々や祖先が為したこと、したがって神話が彼らの創造行為について物語る一切は、聖なるものの領域に属し、それゆえ存在に関与する。これに対して人間が神話の典型なしに自分の発意から行なうことは、すべて俗なるものの領域に属する。それは空しい虚妄の行為であり、究極的には非現実的行為である。人間は宗教的であればあるほど、その振舞いに対して多くの模範を持つ。言い換えれば、人間は宗教的であればあるほど実在に順応し、それだけまた典礼にのっとらぬ〈主観的な〉― 一言でいえば邪な行動に踏み迷う危険が少ないのである。」(4) あらゆる権力は究極的には、一つの情報秩序として己を構成するものなのだが、とくに儀礼はその意味での、典型的な権力の技術なのである。そして儀礼によってその自己同一性(アイデンティティ)を保つ社会が個人的な逸脱や偏差に対して示す敵意や警戒心は、この社会がテクノロジカルな基盤の貧弱さのゆえに常に資源の稀少性や社会構造の離散性に悩まされていることを物語っている。

      *

  それでは悲劇『オイディプス王』において、遊戯とも儀礼とも異なるドラマに固有の時間性はどのようなものであろうか。まずこの劇の内容に入る前に、我々はソポクレスがすでにアイスキュロスら他の劇作者によってさんざん使い古されたテーバイ王家の呪いの物語を主題にとりあげていることに注意しよう。巷間によく知られた昔話をあの手この手とパロディ化するギリシアの劇作者たちの手法ほど、儀礼と対立するドラマの時間意識をあざやかに開示するものはないといえる。彼らがパロディ化を劇作の常套手段とするのも、現在が過去によって一義的=因果的に決定されることなどありえないからに他ならない。時間の進行と共に、過去とは無縁な全く新奇な出来事が絶えず発生している。そして現在時に生起する出来事の新奇さは、共同体に伝承されてきた過去のテキストが連続的変形を蒙るという形で示される。

  自分の過去を探索する人間オイディプスを主人公にすることによって、ソポクレスは、儀礼とは異質な〈演劇的現在〉の時間そのものを舞台に乗せたのだということができよう。この舞台の上ではドラマが進行し局面が替わるたびに、オイディプスの過去がもつべき意味が次々に変容する。ドラマにおいては出来事の意味はひたすら時間的前後関係によって決定されるものなのだが、このサスペンスに充ちた演劇的現在の時間過去に因果的に決定された時間とも、また単なる不測時の到来としての未来に開かれた時間とも質を異にする。すぐれたドラマにおいては、到来する未来が刻一刻と過去の意味を再決定する演劇的現在の時間が主権を確立する。

  そしてこの時間は、他者との思わぬ出会いの瞬間から構成される時間でもある。この瞬間的な出会いの時間においては、人は自分自身や既知の人間を未知の他者として発見する一方、未知の他者が自分の自己同一性(アイデンティティ)の一部をなしていることを見出す。預言者テレイシアスとの出会いがなければ、オイディプスは自分が誰なのか知ることはなかったろう。そして彼を励まそうとした妻イオカステの善意の言葉を契機として、オイディプスは自分が母と結婚した人間であることを知る。この世界では誰も、自分が行い語ることの意味を知りえない。行為の意味は人と人との出会いの瞬間に構成され、時間と共に変転する。オイディプスが父を殺し母をめとることになったのも、王命に背いて赤子の彼を殺さず見知らぬ羊飼いに渡した召使いの善意の思わぬ帰結なのだ。

 そして劇的急転回(ペリペテイア)が到来する。このドラマはオイディプスが王から乞食に、目明きから盲人に、救世主から呪われた者になったことを示して終る。否、終ったのではない。自分の出生の秘密を知ったオイディプスは、ようやくこれから人生の名に値する生を生き始めるであろう。この劇の当初から彼は知ることへの情熱に捉えられている。そして真実を知った代償に自分が無に等しい者となったことに対しては彼はいかなる後悔も示さない。始まりは終りであり、終りは始まりである。『アンティゴネー』のようなヒロインの死に終る作品でさえも、ギリシア悲劇は常に人生をやり直すこと、再開と回生への呼びかけを余韻として終る。それゆえに演劇においては、あの完結した時間という虚構は、始まりを終りに、終りを始まりにする時間の逆転に仕える。そして時間の逆転を通じて過去は新たな意味をもって再び生まれ、時の連続性が確立される。

  儀礼に固執する集団主義の社会とは対照的に、ドラマは古代ギリシアの民主制を母胎とし、ポリスの政治教育の手段として開花した。それは個人的な逸脱を頭から罪と決めつけることなくむしろ共同体に未知の貴重な情報をもたらす出来事とみなして、共同体の信条と規範を絶えず再検討する、学び成長する社会の所産であった。「一人は万人のために、万人は一人のために」という民主制のモットーは、このような学ぶ社会なしには無意味なものとなる。そして人間たちの学び成長し変容する能力への底知れぬ楽天主義のゆえに、ギリシア悲劇は人間ではなく「行為する人間を模倣する」(アリストテレス)。というのも人間は、彼がすでになしたことを超えて成長しうる存在であるから。だからドラマは市民たちの生きる日常の歴史の時間に対して批評の契機として対立し、個人と社会のより深く生産的な調和が可能なることを予感させる。そして常に己れの在り方を再検討する社会にとってのみ、知は遅れて到来する。人は苦悩をとおして学び、学び成長することは解放と歓喜に導く。ゆえにオイディプスは行為よりも知への激情に生き、見かけの生を捨て成長する生に加担することによって、偉大な悲劇の主人公なのである。

(1)この問題の簡潔な解説としてはN.ウィーナー『サイバネティックス』(岩波書店)の第1章を参照。
(2)ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫)、p.73
(3)エリアーデ『聖と俗』(風間敏夫訳、法政大学出版局)、p.79
(4)同署、pp.87-8

出典
関 曠野「知は遅れて到来する」1985年5月
関 曠野『資本主義その過去・現在・未来 』影書房198511月刊、所収 pp.184 - 193

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