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2024年7月13日 (土)

関 曠野「忘れられた思想史の発掘」1985年11月

本論考は、思想史家・関 曠野の下記への書評です。簡にして要を得た優れた書評なので、弊ブログに再掲いたします。

〔訳書〕アルバート・O. ハーシュマン『情念の政治経済学』佐々木毅・旦祐介訳、1985年9月、法政大学出版局、叢書・ウニベルシタス, 165
〔original book〕Albert O. Hirschman, The passions and the interests : political arguments for capitalism before its triumph, 1977, Princeton University Press

※See(en.ed.) : Seki Hirono, Unearthing the Forgotten History of Ideas, 1985: 本に溺れたい

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アルバート・O. ハーシュマン『情念の政治経済学』佐々木毅・旦祐介訳、1985年9月、法政大学出版局、叢書・ウニベルシタス, 165
〔original book〕Albert O. Hirschman, The passions and the interests : political arguments for capitalism before its triumph, 1977, Princeton University Press
(Princeton University Press, 2013, 1st Princeton classics ed,pbk, foreword by Amartya Sen ; with a new afterword by Jeremy Adelman)


関 曠野「忘れられた思想史の発掘」1985年11月
出典:関 曠野『野蛮としてのイエ社会』1987年3月、御茶の水書房、pp.378-80
初出:朝日ジャーナル、1985年11月1日、朝日新聞社

 どうせ人間はみなエゴイストなのだから資本主義は不滅なり、という俗論がある。しかしながら現代人に固有の打算的なエゴイズムは、実は資本主義の文明が長い年月をかけて練りあげ、一つの人為的な規律として我々にたたき込んだものなのである。現代人のエゴイズムがどれほど奇妙な倒錯した代物であるかということを、例えば、マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの禁欲の近代的営利精神への逆説的な転化として示した。

 ハーシュマンは本書でこのウェーバー説に対抗して、もう一つの資本主義思想の系譜、すなわち賢明で平和的な営利の精神こそが情念に操られて恣意と専制を超克し、信用するに足る公共秩序を生みだす、という思想をマキャベリからスピノザ、モンテスキュー、重農主義者やジェームズ・スチュアートをへてアダム・スミスにまでたどってゆく。小冊ながら、一つの忘れられた思想史上の伝統を再発掘しようとする野心的な試みといえる。

 著者によると、パスカルのような近世西欧の思想家たちに見られる、英雄的理想や情念の破壊的性格に対する非難や警告は、貴族対ブルジョアジーの階級闘争に直接関係したものではなかったという。ではいかなる社会的破局が情念への攻撃にからんでいたのかということになるが、残念ながら本書ではこの点は明らかにされていない。ともあれ西欧人には情念という破壊的な存在の脅威に対して三つの方策があった。つまり力で制圧するか、うまく利用するか、情念に情念を対抗させて相殺するかである。そしてマキャベリに源を発する三番目の方策がホッブズの社会契約説となり、ついでモンテスキューの、商業と経済活動は専制を抑制する平和と相互依存の秩序をもたらすとする説、スチュアートの複雑な近代的経済システムは専制政治の介入を不可能にするという議論に発展していく。しかるにスミスは「経済の政治的効果」を説くこの思想史的潮流の終りに位置し、あらゆる情念を事実上富の増大と生活水準の改善への衝動に還元し、非経済的欲望も経済的手段により満たされうる、というパラダイムを提出することで利益対情念の二元論を清算してしまう。これは経済学なる学問の素性を洗う際には重要な指摘である。

 他方、このモンテスキューらの説に対する強力な反論は、アダム・ファーガソンとトクヴィルからやって来て、両者は、営利追求に専念する市民たちの非政治化に加えて規律ある市場秩序を維持する必要から、商業に基礎を置く、新しい専制が出現する可能性を指摘する。

 著者によれば「利益の支配」のヴィジョンは、利益本位の社会秩序がもつ恒常性と可測性および金銭欲の相対的な無害さを根拠として擁護されたという。そのかぎりでは著者の主張は、先のウェーバー説に対する補完的な反論を意図したものであるにもかかわらず、資本主義にとっては予測可能な法と行政が不可欠であるとするウェーバーのもう一つの主張と重ならないこともない。

 だがハーシュマンの寄与は、「ウェーバーは、資本主義的行動・活動は個人の救済を必死に模索した結果間接的に生じたものだと主張する。それに対して、私の主張によれば、資本主義的形態が普及したのはむしろ社会の破滅を防ぐ方法を同じく必死になって捜したためである」(訳書p.130)という見解にある。資本主義的な〝強欲と金銭欲による組織化〟は、近世の西欧人がその社会の全面的破局に替わる次善の策として採用したものだったーという主張に評者は全面的に賛成であり、この事実は資本主義を超えるのはいかなる社会かという問題を考える上でも決定的なポイントであるように思う。訳者も言うように、本書はユニークな著作というよりは簡潔で交通整理的な入門書とみるべきだろうが、扱われている主題の重要性からすれば、トーニーの『獲得的社会』*1やC. B. マクファーソンの『所有の個人主義の政治理論』*2などとならべて評価されてよい本ではないだろうか。

*1  R.H. Tawney, The acquisitive society, 1920, NY, Harcourt
河出書房新社 世界の思想 17 イギリスの社会主義思想 ラスキ共産主義論/トーニー獲得社会(山下重一訳)他、昭和41(1966)年

*2  C.B. Macpherson, The political theory of possesive individualism, 1962, Oxford
C.B.マクファーソン、所有的個人主義の政治理論、藤野渉他訳、合同出版、1980年

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コメント

遍照飛龍 さま
コメントありがとうございます。

>ネオコン~新自由主義経済って奴

はい、それで良いと思います。
つまりアメリカの二百年間の国家の歴史、そのもの、です。
富者に都合の悪い法律、政策(たとえば、金持ちへの増税やそれに基づく、貧者への手厚い福祉政策など)は、悉く拒否され、経済活動がより活発になる政策(所得税減税は積極的に推進される)といったことです。

投稿: renqing | 2024年7月18日 (木) 01時15分

>両者は、営利追求に専念する市民たちの非政治化に加えて規律ある市場秩序を維持する必要から、商業に基礎を置く、新しい専制が出現する可能性を指摘する。

今の集団的西側がそれですよね。

帝政日本も同様ですよね。ネオコン~新自由主義経済って奴がそれですよね。

投稿: 遍照飛龍 | 2024年7月17日 (水) 18時31分

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