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2024年8月

2024年8月29日 (木)

T.S.エリオットによる、ウォーコップ『合理性への逸脱:ものの考え方』1948、への紹介文

‘Deviation into Sense: The Nature of Explanation’ by O.S. WAUCHOPE, 1948, London, FABER & FABER

◆ブログ主による注釈
 以下の文は、本書初版ジャケットの前後フラップ記載のものです。これは、おそらく当時、FABER & FABER社の文芸部門取締役だった、T. S. Eliot 執筆にかかるものと私は推定します。この4年前(1944年)には、ジョージ・オーウェルが持ち込んだ『動物農場』原稿を没にしたエリオットが、最終章に豚が登場するこの奇書の出版を推進するとは、なんという歴史の皮肉でしょう。

※英語原文は、Introduction by T.S. Eliot to O.S. Wauchope: 本に溺れたい をご参照ください。

 当時の分析哲学真っ盛りの England 哲学界の中心Londonで、このような反時代的哲学書を出すことは、出版人としてはかなり勇気が必要だったはずです。なにしろ、ギルバート・ライルの『心の概念』が翌年の1949年に出版されて、大反響を得る、という時代です。もしWauchopeの本書の原稿が、反骨の詩人T.S. Eliot が文芸部門取締役をしているFaber & Faber に持ち込まれるという僥倖がなければ、本書は決して日の目を見ることはなかっでしょう。そして、そのエリオットを含む英文学の研究者深瀬基寛がたまたま本書を手にしなければ、本書の日本語訳書は出ることはなかったに違いありません。そして、Wauchopeから絶大な影響を受けた、安永浩による精神病理学の一連の業績も無かったでしょう。中井久夫は安永浩をこう評しています。「……安永は今後何度も再発見されるであろう……。」人の世の巡り合わせの不思議を思わざるを得ません。

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2024年8月28日 (水)

マイケル・オークショットの書評(1949年)、O.S.ウォーコップ『合理性への逸脱』1948年

以下は、Times Literary Supplement(15 January,1949), 45 に掲載されたマイケル・オークショット書評の日本語訳です。
※英語原文は、Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948: 本に溺れたい へどうぞ。

書評本
Oswald Stewart Wauchope, Deviation into Sense: the Nature of Explanation.
London, Faber and Faber, 1948.
〔邦訳 O.S.ウォーコップ/深瀬基寛訳『ものの考え方:合理性への逸脱』昭和26年、弘文堂/昭和59年、講談社学術文庫

◆ブログ主による注釈
 20世紀における最も重要な政治哲学者の一人である、マイケル・オークショット(Michael Oakeshott)は、無類の書痴で、生涯に夥しい reviews を残しています。そのうちの一つに、なんと、故深瀬基寛氏が昭和26年に訳出した、O.S.ウォーコップ『ものの考え方 ー合理性への逸脱』弘文堂(のちに講談社学術文庫から復刊)の原本に対して、Times Literary Supplement上にreviewを書いていました。本書は、Faber & Faber,London という超一流の出版社(T.S.Eliotが学芸部門のdirectorをやっていた)から出されていたのですから、当時のLondonの知識人社会で多少は耳目を引いたと思うのですが、ほとんど無視され、何の知的痕跡も残しませんでした。分析哲学真っ盛りの当時の英米哲学では、こういう本は全く受けなかった訳です。4年のタイムラグで持ち込まれた二人の作家、オーウェルの『動物農場』をrejectして、全く無名の Wauchope の出版を決断したのはおそらく Eliot です。売れる筈のオーウェルを没にし、まあ売れないだろうウォーコップの出版決定をするとは、T.S. Eliotの偏屈さと聡明さをともに象徴しているとも言えそうです。
 ま、そのおかげで、日本では素晴らしい訳が出て、それが、故安永浩氏の著作を通じて日本の精神医学界に安永ファントム空間理論へと大きな知脈を残しています。これも、「選択的親和性 Die Wahlverwandtshaften/Elective Affinities」(Max Weber)の事例だと思います。この Oakeshott の review は、Wauchope の提出した議論の面白さ、重大さを認識はしています。しかし、迷っている節があります。本書の反時代的偉大さにさすがの Oakeshott も決定的な支持を明確にはしていないようです。本書評はこう結ばれています。「しかし、読者が細部の誤りや支離滅裂さを嘆くことがあろうとも、本書はそのような誤りが致命的となる類の本ではない。 この本には、もっと重大な誤りにも耐えうるだけの天才と、十二分な生命力がある。」
 西欧人、西欧の学知は、「合理性へ逸脱してしまった」という議論ですので、いまでも西欧人は嫌な顔をしそうです。非西欧人は本書をじっくり読んだ方がよいと思います。その呼び水になれば嬉しいです。

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2024年8月27日 (火)

Introduction by T.S. Eliot to O.S. Wauchope (1948)

Deviation into Sense: The Nature of Explanation, by O.S. WAUCHOPE, 1948, London, FABER & FABER

The following text is from the front and back flaps of the jacket of the first edition of this book. I presume it was written by T. S. Eliot, then director of the literary division of Faber & Faber. What an irony of history that Eliot, who four years earlier (1944) had rejected George Orwell's manuscript of “Animal Farm,” would promote the publication of this strange book in which a pig appears in the final chapter. It must have taken a lot of courage for the publisher to publish such an antiquated philosophy book in London, the center of English philosophy at the height of analytic philosophy at that time. After all, Gilbert Ryle's “The Concept of Mind” was published in 1949, the following year, to great acclaim. If it had not been for the fortuitous chance that Wauchope's manuscript for this book was brought to Faber & Faber, where the rebellious poet T.S. Eliot was director of the literary department, the book would never have seen the light of day. And if Motohiro Fukase, a scholar of English literature who includes Eliot, had not happened to come into possession of this book, it would never have been translated into Japanese. And Koichi Yasunaga, who was greatly influenced by Wauchope, would not have been able to produce a series of works on the subject. Hisao Nakai described Koichi Yasunaga as follows. “...... Yasunaga will be rediscovered ...... many times in the future.” One can't help but wonder at the strangeness of the human world.

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2024年8月26日 (月)

Words, apophatikē theologia, and “Evolution”

When I hear Kazumasa Oda's famous song “Kotoba ni dekinai (Words can't do it)” (1982, Japanese pops), I tend to rush into it. I always say to myself, “You've already got the words!” And I am not surprised.

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2024年8月20日 (火)

声優・田中敦子さんが死去(アニメ『攻殻機動隊』草薙素子役)

先日、アラン・ドロンが天寿を全うしたというニュースを聞いたばかりでしたが、私にとってはこちらの訃報のほうがちょっとショックでした。

田中敦子さん死去で各業界が追悼 出演作品・企業・声優仲間たち「素晴らしいお声で命を吹き込んでいただきました」| ORICON NEWS

享年61歳。病没、とのこと。
「攻殻機動隊」の草薙素子役は、とにかくcoolで、官能的で圧巻でした。
私にとってのインパクトは、「寄生獣」の敵役パラサイト田宮良子で、その知的なアルトの声音が思い出されます。
合掌

ご参照
寄生獣〔岩明均:1988-95/アニメ2014-15〕①: 本に溺れたい

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2024年8月19日 (月)

「法の支配」か「法による支配」か?/ Rule of Law or Rule by Law?

 Rule of Law は、「法治主義」とは異なる。法治主義という言葉も人によって若干用法が違うが、基本的には、統治が法律によって行われなければならないとする原理であると言ってよいであろう。具体的には、法治主義は、国民に義務を課す法の定立は(細部はともかくとして少なくともその大綱は)議会のよる法律の制定という形でなされるべきこと、司法は独立の裁判所により法律に準拠して行われるべきこと、行政もまた予め定められた法規に基づいて行われるべきことを、要求するものであるとされる。このように、法治主義は、英語では rule by law と表現するのが適切な性質のものなのである。

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2024年8月17日 (土)

Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948

The following is a review of Michael Oakeshott in Times Literary Supplement(15 January 1949), 45.

Oswald Stewart Wauchope, Deviation into Sense: the Nature of Explanation.
London: Faber and Faber, 1948.

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2024年8月14日 (水)

関 曠野「現前の神話と西欧の権力」1984年11月/ Myths of the Appearance and Western Power

 世のマルクス主義者たちの多くは今日なお、マルクス自身は説いた覚えがない筈の〈弁証法的唯物論〉なるものを信奉しており、おかげで弁証法と史的唯物論をどのように統一したものか四苦八苦しているようである。そうした円を方形にするためのシジュポスの空しい労苦は、彼等にまかせておくことにしよう。しかしながら唯物弁証法(ディアマート)というキマイラは、マルクスの著作の歪曲と偽造を意味するだけではない。それは彼のテキストを歴史から孤立させて、一連の啓示からなる聖典にしてしまい、他のテキストとの関連においてそれらの歴史的に可能な意味を再=解読するという作業を、一貫して妨害してきたのである。

 こうして人々は例えば、『資本論 ―経済学批判』とフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と先験現象学』が、根底においては同一のテーマを扱った二つの書物にほかならないことを理解しそこねてきた。だから我々はここで改めて問おう。そもそもマルクス主義者たちは、なぜマルクスの資本主義批判が、一見まるでスコラ的試みにみえる〈経済学批判〉という形をとらざるをえなかったのか、きちんと説明したことがあったろうか。彼等はこの問いに答えることを怠り、代りに唯物弁証法と並ぶキマイラである「マルクス経済学」なるものをでっちあげた。ところが『資本論』のサブタイトルは次のことを意味している。つまり、マルクスにとって資本制生産の秘密は〈学〉の存在、「経済学」という形で組織された一定の言説秩序と不可分だということなのだ。プルードンやバクーニンに対する彼の論争も、その究極の動機は、彼のこの認識にあると言わねばならない。経済=学の存在は何を意味するのか、その批判とはどういう企てを意味するのか。こうした問いを抜きにしては、マルクスとは誰であったのか理解することは不可能であろう。

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2024年8月13日 (火)

塩沢由典『複雑さの帰結』1997年、の「解題集」

本書は、戦後日本の社会科学書のなかで、最も創造的、innovative な成果の一つです。その内容には、知識論(Knowledge theory)、人間行動論、習慣論(habit theory)も含まれ、人文学(主に理論哲学)にも影響を与えずにはおきません。従いまして私も本ブログにて幾度か論じているのですが、それにも関わらず出版社品切れとなっています。仕方が無いので、塩沢氏の他の著作のように文庫化されることを願いつつ、デジタルリソース化を弊ブログで試みることにしました。無論、著作権が存在しますから全文をデジタル化できません。

ただ、塩沢由典氏が単行本として論文集を編む際、収録論文の終りに大抵「解題」なる著者自身によるコメントが付されます。これは読者にとり、極めてありがたいものです。何故なら、執筆のいきさつ、執筆動機、論文集発行時現在での自己評価、補遺等を含むものだからです。この「解題」が丁度よい文量で各章に付随しています。これをデジタルリソース化してその全容を可能な限り多くの人々に知ってもらおうと計画しました。

いずれ、すべての各章「解題」を弊ブログに掲載する予定ですが、とりあえず、今回は、本書の中心論文である「複雑さの帰結」(1993年)の「解題」をupしてみることとします。

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2024年8月12日 (月)

「沈黙」と「待つ」ことの機会費用/ Opportunity cost of "silence" and "waiting"

亀井勝一郎(1968)と大岡信(1987)から感じるのは、現代日本では、「沈黙」、あるいは「間(ま)」、「空白」への恐怖があり、過剰な「おしゃべり」が氾濫していることです。私自身の投稿も含め、ネット上の表現空間は、言葉、画像、動画で埋め尽くされています。これは「待つ」こと、あるいは「無駄」であること、への恐怖感ともつながっている気がします。

総じて現代人は程度の差はあれ、ネット依存症であり、これは、精神の「沈黙」を邪魔し、「熟考」を阻害する危険性を感じます。では、どうすれば良いのか。自分に直接跳ね返る事なので、なかなかの難問です。それこそ「沈思黙考」が必要であるようです。下記、参照。

沈黙、その雄弁なるもの/ There is nothing more eloquent than silence: 本に溺れたい

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2024年8月11日 (日)

「獲得と所有権」志向から「ケアと義務」志向への転換のために/For a shift from an “acquisition and property” to a “care and obligation”

以下の文は、書評として書き出しましたが、あらぬ方向に向かって書き終わってしまいました。とりあえず、備忘録としてこちらに書き留めておきます。

〔書評〕勝田有恒・森征一・山内進編『概説西洋法制史』2004年ミネルヴァ書房

本書は、非西欧知識人が座右に置くべき必読書と言えます。なぜなら、現代の巨大、複雑な社会がそこそこの秩序を保ち、運営されているのは、発達した近代法体系に負うからですし、それは西欧人たちが構築してきた歴史資源であることは否定しようもないからです。

内容は、「西洋法制史」事典ですが、充分にドイツ風の「西洋国制史」ハンドブックとも評せるでしょう。

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2024年8月 6日 (火)

関 曠野「なぜジャン=ジャックは我等の最良の友なのか」2012年

 下記に転載するのは、関 曠野氏が2012年に発表したルソー論です。関 曠野氏のルソー論に関してはかなり古い前史があります。氏は、代表作と言える、『プラトンと資本主義』を1982年(北斗出版)、『ハムレットの方へ』を1983年(北斗出版)に、矢継ぎ早に世に出し、1986年には、朝日新聞社から『ルソーと近代社会』と題する新著を上梓するという予告が、いくつかのメディアにて公表されていたのです。ただ、極めて残念ながら、2024年現在においても、氏の新しい主著となるべきルソー論は、いまだ著されていません。周辺ではかなり期待され、ご本人も強い意欲を持たれて、資料の読込み、研究ノート等、執筆準備はかなり積みあがっていたように仄聞します。ただ、そういった経緯の中で、氏は2012年に本論文を公表しています。8000字、原稿用紙400字詰で20枚で、大論文とは言いかねますが、氏のルソー論がもし世に問われていればこうなっていたであろう、そして大きな議論を呼ばざるを得なかったであろう、と想像させるに足る内容となっていると思われます。是非、多くの方の目に触れてほしいと願い、デジタルリソース化して弊ブログに掲載いたします。


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