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2024年8月13日 (火)

塩沢由典『複雑さの帰結』1997年、の「解題集」

本書は、戦後日本の社会科学書のなかで、最も創造的、innovative な成果の一つです。その内容には、知識論(Knowledge theory)、人間行動論、習慣論(habit theory)も含まれ、人文学(主に理論哲学)にも影響を与えずにはおきません。従いまして私も本ブログにて幾度か論じているのですが、それにも関わらず出版社品切れとなっています。仕方が無いので、塩沢氏の他の著作のように文庫化されることを願いつつ、デジタルリソース化を弊ブログで試みることにしました。無論、著作権が存在しますから全文をデジタル化できません。

ただ、塩沢由典氏が単行本として論文集を編む際、収録論文の終りに大抵「解題」なる著者自身によるコメントが付されます。これは読者にとり、極めてありがたいものです。何故なら、執筆のいきさつ、執筆動機、論文集発行時現在での自己評価、補遺等を含むものだからです。この「解題」が丁度よい文量で各章に付随しています。これをデジタルリソース化してその全容を可能な限り多くの人々に知ってもらおうと計画しました。

いずれ、すべての各章「解題」を弊ブログに掲載する予定ですが、とりあえず、今回は、本書の中心論文である「複雑さの帰結」(1993年)の「解題」をupしてみることとします。

塩沢由典『複雑さの帰結』1997年、NTT出版、314頁
1.複雑さの帰結(pp.27-86)
 1.複雑さと合理性の限界
 2.世界モデルの操作可能性
 3.定型的判断の構造
 4.中間的まとめ
 5.組織による限界の拡大
 6.自律的過程の分析枠組み
 7.経済学の課題
 解題(pp.86-89)


 本論文は、岩波講座「社会科学の方法」第Ⅴ巻『分岐する経済学』(岩波書店、1993年)のために書かれた。偶然の機会があって、この講座の編集に参加することになり、私がこの巻に貢献できる論点は何か考えて、このテーマを選んだ。この講座の編集にいくらか私の貢献があるとすれば、この巻と第Ⅳ巻『社会科学の現場』の二巻についてであろう。社会科学が営まれる現場を調査し、考察することは社会科学の方法として欠かせない視点と思われる。

 この論文は、いくつかの発想源をもっている。第2節の「世界モデルの操作可能性」は、サイモンのモデル理論が出発点となっている。これについては「H.A.サイモンのモデル概念について」と題して社会・経済システム学会関西支部例会(91年6月22日、関西大学)で発表させてもらったことがある。ORについては、『経済セミナー』の連載「二十世紀と経済学」の第4回「オペレーションズ・リサーチとその限界」(第450号、92年7月)で紹介を試みた。

 第3節では、「状況の定義」という概念にぶつかった。定型的な判断には、世界モデルを決定するに必要なだけの規定があればよく、「状況」はその必要に合わせてみずから構成するものとなる。これは私の発明と思っていたが、サイモンとマーチの Organizations {John Wiley,1958}に同じ概念があることを後に野田隆氏から教えられた。この古典的著作はなんどか手にしたことがあり、その内容把握がいかに浅いものであるか、思い知らされた。迂闊であったが、内部状態がモニターすべき外部変数を決めるという行動のテューリング機械モデル(前著『市場の秩序論』第11章第3節)に従えば、状況が単に与えられるものでなく、必要に応じて定義しなおされるものであることはむしろ当然のことである。「状況の定義」という概念は、そこにほぼ必然的に派生するものと考えられよう。

 第5節の企業イメージは、取引費用の節約により企業を説明するR.コースとそれを承けたウィリアムソンに対する隠れた抗議としてある。合理性の限界を強調するにもかかわらず、ウィリアムソンは企業を透明で計算可能な対象として捉えている。取引費用は、市場や組織の取引構造を与件とするかぎりで定義可能なものであろうが、企業の外延を決定するものとしては想像上の存在といわなければならない。

 この論文の眼目は、複雑さと合理性の限界という「うらおもて」の事態における人間行動を考察するとともに、その行動の場として経済をゆらぎのある定常過程と捉えることにある。この構想自体は、スラッファの研究から私が学んだものであるが、それを「自律的経済過程」と名付けられることに気づいたのは1992年である。そのきっかけは森岡真史氏の社会主義数量経済研究会の報告「コルナイ・ヤ―ノシュの経済理論」(1992年6月5日)が与えてくれた。コルナイの『反均衡の経済学』は読んでいたが、そこに「経済の自律過程」という考えが展開されているのを私は完全に忘れていた。70年代に読んだときには、その構想の重要性に気づかず記憶にも残らなかったものと思われる。これをきっかけに、「経済の自律過程を研究する」というひとつの目標が定まった。自律的経済過程は、経済の半自動的な進展を前提とし、経済行動としては定型的ないし、習慣的なものを考えることになる。

 つぎの点を断っておかなければならない。それは、習慣や定型行動に注目するからといって、人間の行動をすべて半自動的で反射的なものと考えている訳ではない、ということである。第4節「中間的まとめ」にも触れているように、人間の行動には習慣的行動と純正の決定とがある。問題は、経済の総過程を分析するにあたって、習慣的行動と純正の決定のどちらに重点を置くか、である。純正の決定を強調すれば、ひとびとの命懸けの決断により力動的に変化する過程というイメージが得られよう。しかし、それは経済の複雑さを十分考慮に入れたものであろうか。新古典派はすべてを純正の決定と考え、それを経済という巨大なシステムと調和させようとして一般均衡の枠組みに頼らざるを得なかった。かれらが長く無限の合理性から抜け出せなかったのは偶然ではない。

 経済過程が行為者の計算に基づいた行動の結果であると考えるには、経済はあまりにも巨大である。経済過程の進行は、ひとびとが正しく判断した結果ではなく、むしろ無意識な習慣行動の形成したものと見る方がよい。経済を自律過程として研究するという構想は、このような背景に基づいている。

 習慣的行動と純正の決定は、単に対立しているだけではない。本文にあるように、多くの行動を半自動的なものとして思考の時間を節約することにより、より重要な判断に思考の時間を割く可能性が得られる。また、第5節に触れたように、習慣的行動をモジュールとして、より高度な行動が組み立てられる。行動をこのようなスペクトルにおいて見ることに対立しているのは、すべての意図的行動をある究極目標を実現するための一回限りに選ばれたものとみる見方である。

 自律過程の分析枠組みとして提案されている「オートマータのネットワークからなるオートマトン」というプランはいかなる具体性ももたないが、最近の進化ゲームやシミュレーション・ゲームをすべて包含する一般性は備えている。コンピュータを使った最近のこの方向での研究では視野や合理性の限界が考慮されていることが多く、その点は歓迎すべきだが、いまだに類比的な構成に終っている。ワルラスの競り人のような、架空のゲーム・メーカーを仮定しなければならない点も問題である。経済の生産過程や交換過程、さらに投資過程などの実態を抽象するものにしていく必要があろう。この方面のより一層の進展を期待したい。

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