関 曠野「なぜジャン=ジャックは我等の最良の友なのか」2012年
下記に転載するのは、関 曠野氏が2012年に発表したルソー論です。関 曠野氏のルソー論に関してはかなり古い前史があります。氏は、代表作と言える、『プラトンと資本主義』を1982年(北斗出版)、『ハムレットの方へ』を1983年(北斗出版)に、矢継ぎ早に世に出し、1986年には、朝日新聞社から『ルソーと近代社会』と題する新著を上梓するという予告が、いくつかのメディアにて公表されていたのです。ただ、極めて残念ながら、2024年現在においても、氏の新しい主著となるべきルソー論は、いまだ著されていません。周辺ではかなり期待され、ご本人も強い意欲を持たれて、資料の読込み、研究ノート等、執筆準備はかなり積みあがっていたように仄聞します。ただ、そういった経緯の中で、氏は2012年に本論文を公表しています。8000字、原稿用紙400字詰で20枚で、大論文とは言いかねますが、氏のルソー論がもし世に問われていればこうなっていたであろう、そして大きな議論を呼ばざるを得なかったであろう、と想像させるに足る内容となっていると思われます。是非、多くの方の目に触れてほしいと願い、デジタルリソース化して弊ブログに掲載いたします。
関 曠野「なぜジャン=ジャックは我等の最良の友なのか」2012年
『現代思想』青土社、vol.40-13、2012年10月発行、pp.50-55
思うに、中央公論社の『世界の名著』シリーズに収められているようなヨーロッパの思想家たちは、遠からず誰にも読まれなくなるだろう。日本人がヨーロッパを思想の師匠と仰ぎ弟子入りした時代は終りつつある。これは「日本が欧米から学ぶものはもうない」と豪語したバブルの八十年代の日本の脂ぎった自己満足とは事情が違う。ヨーロッパの思想家たちは、日本が直面している問題を打開するためにも、日本を世界の中に再定位するためにも、もう示唆するところがないのである。そして何よりも欧米人自身が、ヨーロッパが代表するとされてきた「進歩」とは一体何のことだったのか訳が分からなくなっている。ヨーロッパの思想はかつての普遍性の後光を失い、世界の一地方の田舎臭い信条になってしまった。だから若い世代が留学に熱心でないのも無理はない。しかし「マルクスの昭和は遠くになりにけり」だとしても、我々に還るべき国粋の本拠地などあるべくもない。むしろこれから、人類史に内在する普遍的なるものを探求する我々の容易ならざる模索が始まる。そしてこの模索の中で、幾人かのヨーロッパの思想家の著作は人類史的普遍性の視点から改めて再評価され、古典として読み継がれ、これまで看過してきたその思想の深みが再発見されることになるだろう。おそらくルソーはそうした思想家の一人である。
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しかしルソーの新たな読解のためには、まずルソーの上に堆積している誤解と歪曲の山を一掃することが必要である。この問題に関しては、ルソー自身「二人のルソー」がいるのだと言っている。「私の同時代人の中で(私ほど)ヨーロッパで名が知られ個人として無視された人間はいない。〔中略〕誰もが本人が反駁しに来る恐れなしに私について勝手な想像をめぐらせている。広い世間にルソーなる者がいたのだが、もう一人の世間から身を引いているルソーは彼に全然似ていない」(1)。そして世にある汗牛充棟のルソー研究書はほとんどすべてこのルソーなる者についてのゴシップなのである。そこではルソーはフランス革命の預言者なかんずくジャコバン派の先駆者とされ、ゆえにルソーの評価はフランス革命に対する賞讃や非難に帰着することになる。確かにルソーは革命を予感していた。但し社会の破局としてである。晩年の『対話 ―ルソーがジャン=ジャックを判定する』はその予感に満ちている。ロベスピエールはルソーを「神のような人」と呼びその墓に参ったが、マリー・アントワネットもやはり墓参したのである。そしてこの点で画期的だったのは英国のジョーン・マクドナルドの1965年の著『ルソーとフランス革命、1762‐1791』(2) である。彼女はこの時期に革命派と貴族の双方が書いたルソーへの言及があるパンフレットなどを丹念に検討し、貴族の方がはるかに綿密かつ正確にルソーを読んでいたことを立証した。革命派は粗雑な我田引水だった。実際、ルソーをその生涯の論敵ヴォルテールと共にパンテオンに埋葬した革命派がルソーをまともに理解していた筈はないのである。しかしフランスは今も革命が建国神話になっている国であり、ルソーを冷静に読もうとした文学史家ギュスターヴ・ランソンの努力はあったものの、ルソーは革命の騒乱と興奮に飲み込まれたままである。だからフランスからは見るべき研究は殆ど出ていない。そして英国におけるルソーの解釈は、概して英国保守派のフランス革命に対する反応に準じたものである。自由主義的改革として始まった革命は無分別なフランス人によってナポレオンの軍事独裁に行き着いた。ゆえにルソーは出来損ないの自由主義者そして自己陶酔型ロマン主義の先駆者とされる。
しかしルソーの解釈で圧倒的な主流をなしてきたのはドイツ的解釈である。ドイツでは革命は人類と世界が新たに作り直されて再生する神話的な出来事として受け取られたが、それだけに革命が恐怖政治に終ったことによるショックも大きかった。ゆえに今や血迷った扇動家とみなされたルソーを冷静な学者タイプの人間に作り変えて近代国家ドイツの建設に役立てることがドイツ人の課題になった。こうしてルソーのカント的=ドイツ的解釈が成立する。これは、独学者ルソーの混乱した思想をカントが整理して論理的に一貫した思想として提示し直したとするもので、新カント派のエルンスト・カッシーラーの『ジャン・ジャック・ルソーの哲学』がその代表例である。そしてこのカント的解釈が、それ以降の近代ドイツ思想の定礎となった。ニイチェですらその影響でルソーをカントと同一視して道徳蜘蛛呼ばわりしている。しかし生来の音楽家だったルソーと堅物のカントに似たところは全くない。カントが『エミール』に読み耽って時計のように正確な定例の散歩の時刻を一回狂わせたことは有名な話である。だがカントはおそらく『新エロイーズ』は読んでいないし、読んだとしてもエロ小説とみなしたことだろう。
そしてカントが始めたルソー像の偽造をヘーゲルが完成させた。ヘーゲルはカントを下敷きにルソーを恐怖政治をもたらしたジャコバン派の主観主義と同一視し、それをナポレオン的国家理性の客観性の中に「止揚」する。ルソーにおいては祖国は人民の心の中にあり、現存する国家機構とは決して一致しない。だから祖国は絶えず政府を揺さぶる原理になる。だがヘーゲルにとってこれは危険なアナーキズムである。ルソーは社会を形成しながら自然人のままという混合状態に文明人の根本的な矛盾を見出した。だがヘーゲルはこの矛盾を抹殺する。そしてルソーにおける自然状態と社会状態の対比を念頭に、即自、対自、即且対自、の弁証法によってパラドックスに満ちたルソーの政治理論を体系的な国家主義に転倒させる。このヘーゲルの影響で『社会契約論』は国法論として読まれることになる。それだけではない。ルソーを国家主義や全体主義の源流とする類の研究は、結局このドイツ的解釈のヴァリエーションなのである。そしてマルクス主義的なルソーの階級論的解釈も当然のことながらこのドイツ的解釈から派生したものである。そこではルソーは革命前夜の小市民の心情を代弁した著作家とされる。だが彼自身が明言しているように、ルソーはいかなる社会層 classe にも属さなかった。彼は生涯、故郷ジュネーヴを出奔した家出少年のままだった。かれは祖国、市民、家族について論じたが、自身には祖国もまともな家族もなかった。そして故郷喪失者 exile たることが人間と社会を観察するためには戦略的に有利な位置を自分に与えると考え、そこに自分の使命があると信じていた。「人には祖国の懐にいるよりその外にいた方がより同胞の役に立つような場合もあるのだ。その場合には自分の奉仕への熱意にだけ従い不平を言わずに追放の生に耐えねばならない。この追放の生自身が彼の義務の一つなのだから」(3) 。
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ドイツ的解釈はその後のルソー研究には誤った指標になった。それは、ルソー自身がさほど重要視せず同時代人にも殆ど読まれなかった『社会契約論』を彼の主要著作にしてしまった。その一方、彼が自らの思想の集大成として心血を注いだ『新エロイーズ』は手すさびに書かれた恋愛小説とみなされ軽く扱われることになった。そして今もこの作品は古ぼけた恋愛小説でしかなく岩波文庫の邦訳も絶版のままである。しかし『新エロイーズ』は1800年までに約70も版を重ねた十八世紀最大のベストセラーだった。そして当時の一般のフランス人にとっては、ルソーとは『新エロイーズ』を書いた小説家のことだった。そのうえルソーは読者からファンレターが殺到した史上最初の小説家だった。しかもファンレターに見るかぎり彼の読者たちは後世の研究者よりずっと正確にルソーの思想を理解していた。同時代の啓蒙学者(フィロゾフ)と聖職者の双方と対立したルソーは、哲学と宗教のドグマからの自由を求めて小説家になったのである。そして小説というジャンルの特性は、人間を型にはまることなく矛盾、分裂、相克をとおして成長する存在とする彼の人間観にきわめて適合していた。人々の卑近な日常生活を注視する彼の社会観も小説に適合していた。リチャードソンなどの大衆向き読み物としての小説は以前から存在していた。しかしその思想と小説というメディアの特性が精妙に一致していたルソーによって、初めて小説は芸術の領域に高められたのである。だが世間においては相変わらず『契約論』は思想の書であり、『新エロイーズ』は恋愛小説である。だから今もこの作品は誤って『新エロイーズ』の名で呼ばれている。しかしこの小説の本来の題名は『ジュリー』であり、『新エロイーズ』はルソーが後で付け加えた副題にすぎない。『告白』の中でもルソーは基本的に自作を『ジュリー』と呼んでいる。そして題名が『ジュリー』か『新エロイーズ』かによってこの小説の意味は大きく違ってくる。『ジュリー』ならばこの作品を不幸な恋の物語として解釈することは困難になるだろう。
しかしながらルソーに対する誤解と歪曲はルソー自身にもかなり責任がある。彼は自分は音楽家になるべくして生まれたのに文人になったのは大失敗だったと考えていたので自分の文名には全く無関心だった。だがそれだけに彼は読者にきわめて不親切な著者だった。彼はディジョンのアカデミーの懸賞に応募して『学問芸術論』を書いて以来、外的で偶然的な事情に触発されて書き始めるのが常だった。自発的に書き出して完成させたのは『ジュリー』のほか2、3あるだけで、主著になるはずだった『感覚的モラルあるいは賢者の唯物論』と『政治制度論』の著作計画は結局放棄された。『人間不平等起源論』は懸賞応募論文の限られたスペースに豊富な思想を詰め込んだので難解で誤解されやすい小論になっている。『契約論』も簡潔すぎて難解になった例である。ルソーには「人間の理論」(4) があったのだが、彼がそれをまとめて提示したことは遂になく、それは彼の著作全体に断片的な暗示として散在しているだけである。だからルソーの著作は彼が書き残した断片や草稿や書簡を参照しなければ明確に理解できないことが多い。ちなみにある断片でルソーは『契約論』は故郷ジュネーヴの政体をモデルにしていることを明言している。だからこれを国家主義や全体主義の根源とするのはとんだこじつけでしかない。
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そしてルソー像の転換は、彼をフランス革命の前夜ではなく産業革命の前夜に生きた思想家として再考することから始まるだろう。ルソーは英国だけでなくフランスでも商業資本主義が爛熟して金融資本の社会的影響力が拡大し産業革命の下地が形成されつつある様を目にしていた。豪邸の傍らのスラムで貧民がひしめき人々が軽薄な流行と名声を追いかけ一切が見せかけであるパリは商業資本のショーウィンドウになっていた。彼の著作ではこのパリの社会学に大きな比重がある。だがルソーは古い共同体への郷愁ゆえに時代の変化に抵抗したのではない。彼はロックに対する一貫した反論である『不平等起源論』においてすでに「経済」の歴史的な起源を分析していた。そうした分析が可能だったのは、ルソーには「経済」とは異なる視点があったからである。ルソーは、英国における経済学の誕生に代表される十八世紀とは対照的な、もう一つの十八世紀の代弁者だった。近代資本主義の発端は十六世紀のスペイン人によるアステカとインカの金銀の略奪にある。だがこれと同時に大航海時代以来ヨーロッパに氾濫した海外旅行記は、ヨーロッパの文化、社会、制度を相対化すると共に、人類の種としての統一性を示唆するものだった。こうして人類学的人間の普遍性と制度の相対的特殊性が区別されることになった。そして十八世紀はこの人類学的知性が開花した世紀でもあり、ルソーはその際立った代弁者だった。そうした理解がないと、例えば『契約論』の位置付けについて勘違いが生じる。その一節でルソーは言う。「これらの三つの法に加えすべての中で最も重要な四番目の法があるが、それは大理石や銅板の上にではなく市民の心の中に刻まれている。これは国家の真の構成原理をなすもので、日々の新しい力を獲得し、他の法が老朽化し消滅するとき、それを蘇らせ、あるいはそれを埋め合わせて人民を制度の精神の中に留まらせ、無意識理に習慣の力を権威のそれに置き換えるものである。私は習俗、しきたり、とりわけ世論のことを言っている。我々の政治家たちはこの部分を知らないが国家の他の部分の成功はすべてこれに左右される」(5) 。ルソーにとっては法は例外的事態に対処するための手段に過ぎず、社会を日常的に統合しているのは習俗なのである。この認識がないと彼が劇場が社会に及ぼす悪影響を論じた『ダランベールへの手紙』で何を言っているのか理解できなくなるだろう。だから『契約論』はルソーの政治思想の全体を要約するものではない。それは生か死かの例外的事態に直面した社会に適用される基準なのである。そしてルソーは『エミール』の一節で、習俗と統治の必然的な関係はモンテスキューの『法の精神』によって大変見事に説明されているので、国家の実定法的秩序の研究はこの書物で足りると言っている(6) 。『契約論』は『法の精神』に対するルソー的自然法による補遺にすぎない。だから政治思想家ルソーの本領は ― 学問用語を比喩的に使えば ― モンテスキューと同じ法人類学と政治地理学なのである。だが例によって彼はこの領域でまとまった著作を書くことはなかった。それだけに彼が外国人に対する具体的な政治的助言として書いた『ポーランド統治論』と『コルシカ憲法草案』はきわめて重要である。そこでは法人類学者にして政治地理学者のルソーがポーランドとコルシカという全く異質な二国の歴史、国情、地政学に即して『契約論』の原則を巧みに変換し肉付けする様が見られるだろう。そして国家を人口分布や国家の規模、地形的特徴などから形態学的に論じるルソーが、近代国家の法律至上主義(リーガリズム)と深く対立していることも分かるだろう。我々は現在、グローバリゼーションの破綻、産業革命以来の「経済」の時代の終焉を目のあたりにしている。例えば、経済の論理で強行された通過統合がEUにもたらしている危機は、結局ゲルマン的な北とラテン的な南の文化的地理的差異に起因している。国家を究極的に統合しているのは経済ではなく文化と人々の生活様式なのである。それゆえに今日ほどルソーの思想がアクチュアルだったことはない。
『契約論』は各国の実定法秩序における権力行使の正統性を測る尺度 echelle として提出されたものであり、社会変革のプログラムではない(7) 。変革という問題を提起しているのは『エミール』である。但しルソーは自由の国や人民の共和国がこの世に出現しうると信じたことはなかった。権力の濫用と不正は人類社会の恒常的な状態なのである。しかし社会を形成しながら自然人のままという文明の矛盾を個人のレベルで解消することはできる。そして人民は警戒と抵抗と防御の戦略によって権力エリートの暴走を封じ込めることができる。実際、有史以来、人民は抵抗と防御以外の何をやってきたであろうか。だから本書の「教育論」という副題は誤解を招くものである。『エミール』は児童教育のマニュアルではなく、弱者のための抵抗と防御の戦略を開示した書である。子供が主題になるのは彼らが典型的な弱者だからであり、抵抗と防御の術を身につけずに弱者のまま大人になった子供は腐敗した悪人になる。田舎の農家の自活力がある逞しい子供には教育の必要はないが親の地位と財産の相続人として育てられる貴族の子は虐げられた弱者であり教育が必要である。だからエミールの教師は予防としての教育に専念する。長ずればエミールは抵抗し防御する人民を率いる人間になるだろう。
だが人民はなぜ抵抗するのか。抵抗は生命・身体・財産をその所有者として享受するロック的自然権と抵抗権に拠るものなのか。しかしロックの他者を害しないかぎり自分の所有を好きなように処分する自由は「自分を奴隷に売る」自由でもありうる。それと同様に自然権の哲学は、他者を犠牲にしても己の所有を拡大し宇宙の支配者になろうとする欲望で人を駆り立てるだろう。ルソーは封建的な義務の社会を近代的な権利の社会が打破したことがヨーロッパ文明にもたらした危機を正確に観察していた。アングロサクソン流の自然権は社会を解体させるものであり、この解体は国家が強制する法と秩序の見せかけによって隠蔽されるしかなかった。ロック的自由主義は社会を形成しながら自然人のままという文明人の矛盾を拡大したのである。ルソーが聖職者と啓蒙主義者の双方に対立した理由もここにある。前者は空疎なスコラ的義務論を説教し、ロックの亜流である後者はそれを破壊してみせただけだった。だが封建的身分制秩序の終焉は必然だったとしても、それに代わるものは獲得と所有の個人主義ではない。そもそも自由は闘い取られるものではなく種としての人類の特徴である。「自由になるためには何もする必要はないと思われます。自由であることを止めようとしなければ充分なのです」(8) 。だが自然は人間に天与の自由を与えたが、その使い方は教えなかった。そして身分制秩序と共に封建的義務が消滅すれば、いかなる基準に則してこの自由を行使するかということは深刻な問題になる。この問いにルソーは答える。身分制の消滅は、万人が頒かちもつ「人間という身分」の成立を意味している。人間の自由はこの身分に忠実であるという義務を果たすことの中にある。ルソーの思想の中心にあるのは、この神でも動物でもない人間に固有の身分についての探求であり、この身分に由来する義務の問題である。この義務は各人の自分自身に対する義務として始まり、市民の政治的義務もそれから派生する。人民の抵抗と防御も彼らには自分自身をケアする義務があるからである。そしてルソーにおける義務は甘美で官能的なものである。
しかしルソーの義務論は同時代人には理解されずフランス革命は権利の社会の勝利だった。そしてカントは干からびた定言命法によってルソーの思想を戯画化し、官僚制国家の成立に途を開いた。義務は官僚制の職務専念の義務に矮小化されてしまった。ルソーの後ではニイチェだけが「超人」や「永劫回帰」の観念によって脱宗教的な新たな義務の基礎付けを試みたが、これも孤高の思想家の形而上学的夢想にされてしまった。そして私の知るかぎり世界に知られた二十世紀の思想家で義務の問題に思索を重ねた者は一人もいない。これだけでも二十世紀が救いようのない世紀だったことが分かる。キリスト教会を鋳型として形成された欧米の社会で義務の観念が再生する可能性はおそらくもうないだろう。だが日本では ―官僚制国家による戯画化と大衆民主主義による腐食にもかかわらず、日本の民衆の間では義務と名誉の観念は今も生き続けている。だからさりげなくそうした社会であり続けることによって日本は世界の模範になるだろう。そしてそのかぎりで、スイス人ジャン=ジャックは我々の最良の助言者にして友であり続けるだろう。
註
(1)『告白』序文の草稿、"Œuvres complètes" editions du Seuil, Paris, 1967. 第1巻 69頁
(2)Joan McDonald, "Rousseau and the French Revolution 1762-1791", London, 1965
(3)『エミール』前掲書 第3巻 321頁
(4)『ボーモンへの手紙』前掲書 第3巻 342頁
(5)『社会契約論』前掲書 第2巻 539頁
(6)『エミール』前掲書 第3巻 318頁
(7)『エミール』前掲書 第3巻 312頁
(8)『エミール』前掲書 第3巻 320頁
本論文を弊ブログで取り上げた、弊記事(20130120)があります。ついでに、ご笑覧頂ければ幸いです。
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