« ドアを閉じる学問とドアを開く学問/ The study of closing doors and the study of opening doors | トップページ | 「産業革命」の起源(1)/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(1) »

2024年10月31日 (木)

比較思想からみた「原罪」(peccatum originale/original sin)| Original Sin from the Perspective of Comparative Thought

積年の疑問がありましたので、ChatGPTに質問してみました。ご参考までに。

*********************************************************************************

旧約聖書「創世記」3章において、イブとアダムは、神の禁じた木の実を食べました。これを人間の神に対する原罪(peccatum originaleoriginal sin)であるとする教説があります。この意味での「原罪」の教説が、下記の各宗教、あるいは各宗派にありますか。

①ユダヤ教(Judaism)

②ローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)

③ギリシア正教会(Greek Orthodox Church)

④イスラム教(al-Islām)

もし、各宗教、各宗派によって、「原罪」の教説の有無が一致しないのであれば、その理由を教えてください。

***********************************************************************************
ChatGPTの回答(2024.10.31

アダムとイブの「原罪」に関する教説は、宗教や宗派によって大きく異なります。以下に、各宗教・宗派ごとの見解を示します。

① ユダヤ教
ユダヤ教には、キリスト教における「原罪」という概念はありません。創世記3章において、アダムとイブが禁じられた木の実を食べたことは、彼らが自由意志によって罪を犯したこととして解釈されますが、それが人類全体に罪を負わせたとする考え方はありません。ユダヤ教では、罪は個人の行為と関連しており、アダムとイブの罪はその子孫が直接継承するものではないとされています。

② ローマ・カトリック教
ローマ・カトリック教会では、「原罪」の教説は非常に重要な教義の一つです。アダムとイブの罪によって、人類全体が神との関係を断たれ、すべての人が「原罪」を持って生まれるとされます。この「原罪」は洗礼によってのみ清められるとされ、洗礼の儀式が重視されています。この教義は、特に聖アウグスティヌスによって確立され、現在まで教会の中心的な教義として受け継がれています。

③ ギリシア正教
ギリシア正教(正教会)も原罪についての教義を持っていますが、ローマ・カトリックとは異なる解釈をします。正教会では、「原罪」は人間が神から離れた状態であり、罪の影響が人間の性質に及んでいると考えられていますが、それは人間が罪を受け継いでいるわけではなく、罪の結果としての「死と腐敗」の影響を受け継いでいるとされています。正教会では、罪の赦しのために洗礼が重要とされますが、「罪そのものが遺伝する」という考え方は強調されていません。

④ イスラム教
イスラム教には「原罪」という概念はありません。イスラム教の聖典であるクルアーンでも、アダムとイブの物語が語られますが、彼らの行いは許され、彼らの罪が子孫に影響を及ぼすことはないとされています。イスラム教では、すべての人間は生まれながらにして「フィトラ(本来的な清らかさ)」を持っているとされ、罪や汚れが生まれつき付与されることはないとされています。


結論

各宗教・宗派で「原罪」についての理解が異なる背景には、それぞれの神学的な伝統や教義の違いがあります。ユダヤ教やイスラム教では、個人の責任と自由意志が強調される一方、ローマ・カトリック教では人間が生来の罪を持つ存在であるという考え方が強くなっています。また、正教会では罪の影響についての考え方がカトリックと異なり、罪そのものよりも人間の「死と腐敗」に焦点が当てられています。このような差異は、各宗教の神学的な発展や解釈の違いによるものです。

|

« ドアを閉じる学問とドアを開く学問/ The study of closing doors and the study of opening doors | トップページ | 「産業革命」の起源(1)/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(1) »

西洋 (Western countries)」カテゴリの記事

思想史(history of ideas)」カテゴリの記事

イスラム」カテゴリの記事

文明史(History of Civilizations)」カテゴリの記事

Christianity(キリスト教)」カテゴリの記事

比較思想(Comparative Thought)」カテゴリの記事

コメント

お返事ありがとうございます。

私も、キリスト教は本当に門外漢なのでわからないのですが、東方教会の宗旨をみて「なんか、道教や仏教ににているよな」って思ったところがあるくらいですから。

『ギリシャ正教』『正教会の祭と暦』『東方正教会』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-252.html

ルーマニア正教の手引き  ルーマニア観光商務局
https://www.romaniatabi.jp/more/orthodox/index.php


かなりカトリックや新教と違うので、西方教会が気になれば、ウスタシャを仕掛けてくるのも、それだけの違いがあるからでしょうかね。

投稿: 遍照飛竜 | 2024年11月 5日 (火) 11時23分

足踏堂 さん
おお、お久しぶりです。ご健勝のようで何よりです。コメントありがうございます。

「血」あるいは「血脈」というものを、どう考えるかで、父系血脈を絶対視する中国と父母双系血脈(場合によっては夫婦養子で無血の相続)の日本、では、儒教一つをとってもかなり違いがあるかと思います。同じように、孔孟を敬い、同じように、儒教経典を至高のテキストとしていても、日中(or中日)の儒教は違いそうです。とりわけ、唐宋変革後のmodernization して以降の、宋儒、明儒、清儒と、徂徠学革命後の徳川儒教は相当の隔たりがある気がします。たとえ同様に、古典テキストや"儒"を語っても、です。

ただ、西欧伝来のキリスト教信仰の受容、定着の、中、朝、日のかなりの違いは、それぞれの"儒"の存在様態の違いと、位相的に同型ではないか、という「仮説」は、発見法的にかなり有意義ではないかと感じました。韓国におけるカトリック教徒が、500万人というニュースに接すると、人口の1割がカトリックなの?、と耳を疑ってしまいます。この宗教的熱情は、李朝朝鮮時代の儒教(朱子学)的熱情と何らかの相関がありそうな気がするのです。

アウグスティヌスと同様で、半可通のおしゃべりだとお聞き流しください。

投稿: renqing | 2024年11月 5日 (火) 01時21分

遍照飛竜 さん
コメントありがとうございます。

ローマ・カトリック教会に関しては、いろいろな面(「原罪」を含めた教義内容、その組織論的効果)で、西洋古代最大の思想家アウグスティヌスが、原キリスト教(ユダヤ教異端派であるナザレのイエス派)的な部分を(他のギリシア教父たちとともに)ギリシア=ローマ化するのに果たした役割がかなり大きいのでは?と個人的には関心をもっています。彼はなにしろ、約10年間マニ教徒だったし、ネオ・プラとニズムのプロティノスにもかなり強く影響を受けてます。ただし、アウグスティヌスについて、『告白』も『神の国』も日本語訳でさえ読んでいないので、大きなことは言えません。ここまでにしておきます。ただ、西方教会も東方教会も決定的なギリシア化をしているのに、西方教会がより「人間(個人)の無力さ」を強調するのは、西方教会系古代教父たちの影響が大きいからなのではないか、とは言えそうな気がしています。いまは強力な証拠が何もないので、私の"カン"に過ぎませんので、悪しからず。

投稿: renqing | 2024年11月 5日 (火) 00時35分

ご記事にはたと膝を打ちました。流石のご慧眼です。
「原罪」が「遺伝」するかどうかという観点は盲点でした。
儒教文化圏におけるキリスト教受容を「血」というキーワードで見るのも面白いかなと感じました。

投稿: 足踏堂 | 2024年11月 4日 (月) 15時37分

私も「原罪」は、カトリック・新教よりも、正教会のほうが、イエスやその高弟の思想を正確に伝えているように思えます。

カトリックのほうが、その思想が出現したときには「異端に近い」思想だったみたいですし。

「ローマ教皇の絶対性」など、正教会には「なんじゃこりゃ!」って代物ですから。

投稿: 遍照飛竜 | 2024年10月31日 (木) 10時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ドアを閉じる学問とドアを開く学問/ The study of closing doors and the study of opening doors | トップページ | 「産業革命」の起源(1)/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(1) »