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2025年4月 9日 (水)

徳川日本の《自由》/ The “freedom” of Tokugawa Japan

 徳川日本の時代、《公儀》の統治は、原則的にはそれぞれの中間団体の自治にまかせていました。村は村の自治、町は町の自治。武家は、徳川家なら徳川将軍の統治(=自治)、大名家なら大名家の自治。中間団体間でconflict(対立、軋轢)が発生した時に当事者から申し立てがあるときだけ、《公儀》はその案件に介入しました。この統治システムのおかげで、徳川家や大名家の統治あるいは自治は、極少人数の代官システム、スリムな行政機構で、人口3000万人を超える、大規模な国家を二百五十年もガバナンスできていた訳です。

 この体制はポジティブに表現すれば上記のようになりますが、ネガティブに言えば、「自分たちでなんとかしろ」というのが実態で統治者による臣民への怠慢とも言えます。これは支配者への貢租義務さえ満たせば、残りは「放置プレー」で、むしろ事実上の《自由》と言って差し支えありません。そしてこの《自由》は長期にわたって行使されていくと、事実上《権利化》していきます。この状態が19世紀前半の徳川日本でした。

 しかし、十数人の官吏で数百人から数千人単位の臣民をガバナンスすることにはそもそも無理があり、とりわけ徳川19世紀は、日本列島中でビジネスが盛んになり、臣民は《自由/勝手》に活動を拡大し始めていました。とてもではありませんが、少人数の統治機構でなんとかなる時代ではなくなっていました。寛政の改革(1787-93)、天保の改革(1841-43)、その間に、「文政六年一千七ヶ村国訴」(1823)、文政改革(1827)、等がありました。こう矢継ぎ早に《公儀》が統治のアップデートを実施したのもやむを得ません。しかし、この一連の努力は、どれもパッチワーク以上の効果を持ちませんでした。各中間団体の自治、これこそが徳川国制(Tokugawa constitution)のアルファでありオメガであったことには変更の仕様が無かったからです。

 ビジネスライクで大規模化した国家の統治のために、この国制に手を付けることは、事実上の体制変革、つまり「革命」と同義です。これは、統治者が自らを外科手術することを意味し、見方を変えれば、自己否定に等しい。そんなこと、統治者集団を含め、誰も賛成するはずながない。これが徳川の諸改革が自己改革としては成就しなかった根本的な理由です。

そして、その諸改革の《果実》は、トンビが油揚げをかっさらうように、維新政府へ受け継がれることになります。

ご参照
徳川19世紀の二つのボーダーレス化(Two Borderlessness in 19C Japan, or Class action in Tokugawa Japan): 本に溺れたい


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Tokugawa Japan (徳川史)」カテゴリの記事

幕末・明治維新」カテゴリの記事

コメント

彼岸の世界が無い・・「現世利益」や「立身出世以外の真実の世界」が無い・脆弱。ってことに思えます。

その「彼岸の世界」「名利以外の世界」があるから、「立身出世の世界」「この世の社会」がまっとうに回る。。

そんな気がします。

隠者が居ない社会や宗教也彼岸の世界が無いと、「現世利益のエゴイズム」」になりやすそうで。

「西洋近代思想」に「隠者」のいる余地は無さそうですし、今でも隠者になれずニートか引きこもりになってしまう。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月24日 (木) 10時27分

遍照飛龍 様

「廃仏毀釈」「神仏分離」は、列島住民の精神世界に、相当深刻な打撃を与えたと私も思います。

列島住民に、一種の集団的アイデンティティ危機(identity crisis)をもたらしました。

「神仏分離」は、19世紀後半の日本の老若男女から彼岸の光明を奪い、彼らの(とりわけ人口過剰だった若者たちの) identity の拠り所を、此岸における立身出世に切り替えさせ、「坂の上の雲」を目指す競争へと狂奔させた。
そういう風にも考えられます。ただし、徳川日本の「世俗化」は、既に19世紀前半にはかなり進行していた可能性が高いので、「廃仏毀釈」「神仏分離」は最後の一撃だった、かも知れませんが。

投稿: renqing | 2025年4月20日 (日) 23時29分

ふと思ったのが「神仏習合」が壊れたのが知識人の断絶の一因かも・・

江戸以前は、ほぼ坊さんが「知識人」だから、「寺受け制度」が一種の戸籍のように働いていた。
江戸の末期になると、坊さんだけでなく儒者や神官・医者も「知識人」に入ってくるような感じ。

「国学」も契沖~真言僧の研究もなければ、始まらなかったのに。。

維新の後の廃仏毀釈で、九州の方ではかなりの数の修験道の達人レベルの修験者が国家に殺されているとか。。行者の多くが還俗して神官に泣く泣くなったのが圧倒的に多かったし。
まがりなりにも「理論と実践」が、仏教・神仏習合思想もあって合致するようにしてた。儒学でも江戸時代は親孝行を身にして実践してた。

でも明治以降の「教養」~受験勉強てのはそこまで実践と理論の合致を求めない・それでの「高い数字」を出すことが「賢い」「立身出世」の価値観になる。
儒学の「親孝行」も、身にして実践してなくても「天皇陛下万歳」と「学校や世間の成功」で、「どうでもいい」ってなる傾向みたいだし。
そこに一種の断絶があるのかも・・・て妄想的感想です。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月20日 (日) 17時39分

遍照飛龍 様

知識人の在り方は、その国の知的伝統に影響されます。その点は、西欧、中国大陸、日本においても、変わりません。いずれの国でも、母語を始めとした歴史資源のただ中に、ひとは生れ落ちるからです。身体の形成をその国の食材、料理に負うように、心や精神の形成も、その国の文化遺産、歴史資源に負います。ただ、日本列島史の19世紀半ばでの、国制変更では、かなり大きな(捻じれた)断絶が生じています。詳細は、下記の弊ブログ記事をご笑覧ください。
現代日本人は「徳川日本」を1%しか知らない: 本に溺れたい
https://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2019/06/post-3c6616.html
この”捻じれ”については、関 良基氏もその著書で別の側面から繰り返し指摘しています。しかしまだ公知の事実ではありません。また、この知的断絶がどのような歴史的経緯で起きたのかは、解明されたとは到底言い難い状況です。
私も微力ながら、弊ブログで少しずつでも、解明したいと思います。そうすることで、21世紀日本の知的世界の体たらくにも、小さな風穴を開けられることを念じています。

投稿: renqing | 2025年4月19日 (土) 23時28分

日本の知識人って絶望的に思ってます。

上官の命令責任の曖昧さ・・ってこれは軍事組織なら「致命的欠陥」ですが、それを指摘するのは、伊勢崎賢治氏くらいだし。

「優良証拠主義」という刑事司法の欠陥の指摘は、ブログでは「宗純」氏くらい・・

「絆社会」疑似共同体の最良証拠主義(優良証拠制)
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/82b7b099660c445181091b26f267aa61


江戸時代の重層で多彩な知識人と比べると、私の寡聞もありますが、貧相なのか、、それとも「寸止めの誤魔化し」ばかりなのか・・

「天皇」には「知識人」は無用で、奉仕する「肉AI」だけでいい・・・みたいな。。そもそも「天皇と国家の存在理由が無い・問わない~天皇と国家が日本人を守らない」ので、マトモに「知識を駆使したら、天皇と天皇制国家が、日本人にとって存在理由が無いのがばれる」ってことを恐れている。。てうがった考えをしてしまいます。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月15日 (火) 14時03分

遍照飛龍 様

>「日本人を守る気もない。その責任も無い」帝政日本でこれが行われるのは、亡国

>その怒りの矛先が「天皇はじめ、日本人を根絶やしに尽力する帝政日本」でなく、「外国人や同じアジア人」でその憎悪

>あまり共感も集めてない

同感です。
しかし、どこの国家/社会でも、事態を冷静に分析して、「どこに正義があるのか」以上に大切な、「どこに真実があるのか」を見極めることが出来る人々はあまり多くはありません。

真実の在り処、を社会に告知することは「知識人」の役目です。知識人は、《力》の代わりに《言葉》を持ちます。《言葉》を持たない(持てない)人々に代わって、真実の在り処を言葉で示し続けること。これが唯一、社会の中で、知識人の存在する意味だと思いますが、この列島においては、知識人でさえ、《言葉》ではなく、民衆と同じように目に見える《力》を求めているらしく、さっぱり見えてきません。

本来なら、「怒りの矛先の向ける先が違うよ。怒りをぶつける先は、本当はこっちなんだよ」と議論を起こすのが「知識人」のはずなのです。

もし、この列島に存する「国語」、「文化」、「伝統」が、22世紀に周囲と溶解して消失してしまうなら、真っ先にその責を負わなければならないのは、その役割を担えなかった21世紀の、この列島上で《言葉》で食べていた知識人たちでしょう。

投稿: renqing | 2025年4月15日 (火) 01時00分

まだ「言語的な独立性」が維持できる間に、国家を失って「気が付く」ほうが、日本人の存続が可能な気もします。

妙な「移民推進政策」は、遺伝子だけでなく文化も根絶やしする施策ですよね・・・・
移民に「完全反対」でもないのですが、今の「日本人を守る気もない。その責任も無い」帝政日本でこれが行われるのは、亡国です。

ネトウヨ界隈が「怒っている」のも理解できるけど。
その怒りの矛先が「天皇はじめ、日本人を根絶やしに尽力する帝政日本」でなく、「外国人や同じアジア人」でその憎悪なので、あまり共感も集めてないし、世界的にそれで孤立する可能性もあります。箱庭のガラパゴス的社会学後進国~国家の意義を規定できず、国家が国民を守らない~の悲しさかな・・・

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月14日 (月) 20時36分

遍照飛龍 様

>技術の発達による人とモノと情報の伝播・移動の発達で、ついに起きそう

はい、可能性はあります。ただし、通信技術等でこの列島の「国語」が融解するかどうかは、その「国語」の史的頑丈さ(historical robustness)に左右されますから、列島の文芸史の厚みを考慮するとその可能性は低いでしょう。
問題は人口的厚みです。人口予測における最速(最悪?)の数値は、2100年に総人口4千万人となっています。英米の使走であることを自覚できない愚鈍な政治家、財界人によって(労働)人口減対策と称して、移民政策がプロモートされ続けると、人口構成に本質的な変化が起きるかもしれません。

ま、これが最も完璧な《亡国政策》ですので、またしても「してやられる」結果となるだけですが。
私たちはそれを眼にせずあの世に行けるのでむしろ lucky な世代といえるでしょうか。

投稿: renqing | 2025年4月14日 (月) 12時31分

>あまりにも、「幸運な」歴史、箱庭国家の興亡、だったのかも知れません。《国家》や《民族》、《国語》が、地上からデリートされた過酷な《民族》体験が無い、という意味で。

技術の発達等で、海の長城を超えて、ついに「民族の滅亡」なり「民族国家の滅亡」を体験することになりそうです。

ただ、大概の国家の滅亡は「自国内の失政」と「侵略」がセットで起きます。
日本は「戦国時代の領主の争い」以外は、失政で侵略に抵抗できず滅亡・・て歴史を見ませんから・・
それが技術の発達による人とモノと情報の伝播・移動の発達で、ついに起きそうですね。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月14日 (月) 09時28分

遍照飛龍 様

>「何のための国家か」とかそういう問いなり命題が、いったい日本て議論されたのか怪しいですよね。・・・。「民族単位の侵略を受けてない」・・「天皇の意味」みたいな「王の意味」・・・天皇は、、、国家よりも「天皇の存続が第一で国家や日本人は二の次」

千年近い歴史を有し、今もなお存続している国家で、「他民族」からの侵略によって、王統の断絶、異国語を話す王の君臨、あるいは、国家の完全な消滅、等の歴史的経験の無い国家は、おそらく、この列島上の「国家」以外なさそうな気がします。

東アジアの中原に興亡した中華帝国等の、大陸国家は常にそのリスクと隣り合わせですし、この列島の国家と同様の島国である、グレートブリテン島の国家も、千年前には対岸の大陸から襲来した、異国語(仏語)を使う異国人の王によって、王統断絶、貴族層の完全な入れ替わり、を受けています。

多分、他所では「民を守護する王」という表象はあっても、「民に守護される王」という表象は、この列島の王権以外存在しない気がします。

あまりにも、「幸運な」歴史、箱庭国家の興亡、だったのかも知れません。《国家》や《民族》、《国語》が、地上からデリートされた過酷な《民族》体験が無い、という意味で。

投稿: renqing | 2025年4月13日 (日) 13時55分

>大日本帝国は、その誕生から、軍人たちの《自治》に手を焼き、結局は《out of control 制御不能》となり滅んだのでした。

歴史の皮肉なのか、逆にそれが原因で、日本人って「自治」がかなり難しくなり始めている気もします。。
「お任せ民主主義」などそれだったのでしょうが。

軍隊の「軍人の自治」。それの延長にある、戦後の霞が関官僚の「官僚の官僚社会の自治」

「軍人たちの自治」って言われても、そりゃ、単純に「軍閥」に過ぎないし、「官僚の官僚社会の自治」は組織・利益のためだけで、国政は利権争いだけになる。。

稚拙な考えですが、そう思う次第です。

「何のための国家か」とかそういう問いなり命題が、いったい日本て議論されたのか怪しいですよね。。まあだから「国政に責任を取らない天皇~唯一の統治権者」など存在できた。。。これは時々朝鮮半島やベトナムの人や左翼系の人が言う「民族単位の侵略を受けてない」のもあるからでしょうかね・・「天皇の意味」みたいな「王の意味」を朝鮮もベトナムも中国も深刻に考え、それを政治システムに実現している。。でも天皇は、、、国家よりも「天皇の存続が第一で国家や日本人は二の次」と考えて間違いないですし。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月13日 (日) 12時30分

遍照飛龍 様

>「目先の戦争をしたいため」の「近代化~西欧化~準植民地化」が、明治以降の日本社会の最大の悲劇の要因なのでしょうね。

長州薩摩の《維新指導部》の権力の初発の基盤は、各出身藩の軍事力でした。しかし、その旧式の藩軍事力を、「萩の乱」と「西南戦争」で清算する一方で、彼等の子飼いの子分たちを配して、中央政府軍に人脈を構築し、近衛軍を初めとする中央軍(陸海軍)に権力基盤を移植します。そして、太政官制、その中の議会である左院等、政府機構が徐々に整備されてくると、中央の軍機構が事実上、政府の指導下におかれる方向に収斂しそうになりました。それを忌み嫌った軍人政治家や軍官僚は、「明治憲法体制」のなかに「虫食い穴(ワーム・ホール)」を忍ばせることに成功しました。「統帥」の権、すなわち国軍への軍事指揮権を、「立憲上の君主」ではなく、生身の天皇個人に帰属させたのです。天皇は維新政権発足時から、長州・薩摩の指導者集団において「お飾り」だったのですから、これは事実上、国軍の《自治》と同義となります。

この国制上の「ワーム・ホール」が長期的に、大日本帝国と帝国陸海軍が日本史上からデリートさせられた原因です。大日本帝国は、その誕生から、軍人たちの《自治》に手を焼き、結局は《out of control 制御不能》となり滅んだのでした。

投稿: renqing | 2025年4月13日 (日) 01時18分

なるほど学習になりました。

確かに今の「縦型単一社会」だけでなく、徳川の時代は、それなりに「横断的」なものの働いていた面もありそうです。

あと、徳川時代もけっこう盗賊とかいても、それなりに「女性が一人、東海道を旅できる」「お遍路に行ったからって襲われる訳でもない」のは、自己統治と倫理観のおかげ。

また「江戸時代の農村の貧困」は、幕末には、関良基先生のいうように、幕末の薩長の勝手な戦争による為替の異常が一番の原因ですし。

社会保障とかは、まだ付け足す余地はあったでしょうが、「目先の戦争をしたいため」の「近代化~西欧化~準植民地化」が、明治以降の日本社会の最大の悲劇の要因なのでしょうね。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月12日 (土) 12時17分

遍照飛龍 様

>その「徳川の自由」の「自己責任論」に「ただ乗り」した明治維新は・・・国民にすべて擦り付けることで「逃げ切る」のが、前の敗戦でも見える「天皇とその国家の国是」

全く同感です。

「自治」、「自己責任」をひっくるめて言えば、自己統治(self governance)、自己統御(self-control)と言えるでしょう。

これが徳川日本の臣民の《人倫の基礎》(「通俗道徳」)だったわけです。

19世紀前半の徳川日本の「村」には、一年の五分の一(六〇日前後)もの《休日》を取っていた事例が報告されています。なかには「勝手休み日」と称して、若者組が勝手に休んでしまうものもありました。貢租義務さえ果たせば、あとは「お構いなし」であればそうもなるでしょう。徳川日本の臣民は、事実上の《自由》を謳歌していた、と言えます。

この自由〔時間〕を経済評価すれば、徳川農村が困窮し疲弊していた、とうことだけを強調するのは、事実に反します。

徳川日本の農村のこういう側面を無視して、徳川農村貧窮史観=《明治維新礼讃》を蔓延させていたのが、明治以降の史学でした。とりわけマルクス主義史学。その意味からすれば、近代日本においてマルクス主義は歪んだ「イデオロギー」だった、というのが冷静かつ妥当な評価でしょう。

現代日本が他の先進国に比較して抜群に治安が良いと言われるのは、第一に徳川日本からつづく基本倫理である《自己統御(self-control)》の存在、第二に兵役がないこと、この2点に負うでしょう。

この《自己統御(self-control)》は、徳川日本では、《徳川の自由》と見合っていました。ところが、明治constitution を相伝する現在の列島の統治機構は、《徳川の(事実上の)自由》を「多情の老婆(ほんとうは老爺)」の過干渉に置換し、一方では、徳川の《自己統御(self-control)》を「自己責任」に換骨奪胎して、明治、大正、昭和、平成、令和とそれこそ「勝手」にやってきています。

 近現代日本の市民生活における「息苦しさ」は、支配に都合のよい虫食いの過干渉と、仲間(たち)による仲間(たち)への過干渉という、二重生活に起因すると言えそうです。

 政府の多方面の過干渉を「余計なお世話」としてひとつずつ削除し、その分、仲間たちへの干渉を、徐々に《自己統御(self-control)》へと置換する(これは他者への respect でもある)こと。これが現代日本人が日本国を愛せるようになる条件であり、おそらく急激な人口減少を長期的に改善する基本ではないかと思います。

投稿: renqing | 2025年4月11日 (金) 14時47分

「徳川の自由」の負の遺産が「通俗道徳」と言えるかも。


その「徳川の自由」の「自己責任論」に「ただ乗り」した明治維新は「通俗道徳による、長期的な道徳倫理の崩壊。統治層・指導層の官僚的統治のための能力・倫理の不足」は解決せずに、国民にすべて擦り付けることで「逃げ切る」のが、前の敗戦でも見える「天皇とその国家の国是」とも思えます。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年4月 9日 (水) 10時48分

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