徳川日本のモダニティ史:徳川日本260年をアブダクション史学で再構成する
戦国時代と呼び習わされる百年を超える内戦を経験した16世紀日本列島。この流血と飢餓にまみれた自然状態に終止符を打ったのが織豊政権であり、徳川氏のリヴァイアサン、すなわち「公儀」権力と、列島を覆う「一揆」という社会契約であった。
刀狩りは、現代のアフリカ諸国でも見られるような、内戦終結後の民兵組織の武装解除でありPKO(Peace-Keeping Operations平和維持作戦)であった。秀吉の朝鮮侵略は列島内の戦場という稼ぎ場を失くした兵士たちへの失対事業ではあったが、ロジスティック思考の欠落から大失敗に終わる。徳川氏は秀吉の失敗に鑑み、国内開発へ大転換した。それが全国的な二つのブーム、城下町建設と大開墾であった。その歴史的帰結は、戦時動員を解除された、人・モノ・テクノロジー・カネという遊休資源の再活用と、徳川前期のベビーブーム+経済成長で
あった。
〔徳川日本のモダニティ史②〕「徳川前期のベビーブームと社会の複雑化」
1.徳川ベビーブーム
長い戦乱のあとにはベビーブームがくる。第二次世界大戦後が典型的である。十七世紀の徳川日本もその例外ではなく、人口爆発とそれに伴う経済成長の時代であった。すなわち、徳川前期(17世紀)の百年間において、耕地面積は30%増加、人口は控えめに推計しても2倍(1500万人→3000万人)に増加した。いわば高度経済成長であり、徳川版「列島改造」である。
2.高成長のサプライサイド
この高度成長を可能にしたのが、戦時下の動員経済から解放された各種の資源(リソース)であった。人口が成長軌道にのるまでの労働力は、失業し帰農した雑兵や、徳川権力の武断統治にあえなく改易・減封させられた大名家からの延べ50万人に及ぶ牢人(浪人)たちである。興味深いことに、元禄までの徳川期前半の学芸や文化の世界も、この牢人(失業武士)たちやその子たちに活躍の場を与えていた。林羅山、山崎闇斎や近松 門左衛門などが牢人の子であるのはその一例である。内戦下で発達した土木技術(築城術や河川工事)は耕地開発として貢献した。
3.高成長、二つの帰結
この徳川前期の高度成長による帰結は二つ。乱開発による自然破壊と社会の複雑化である。経済成長による経済規模の拡大は、徐々に列島の環境容量に迫っていた。そのため、17世紀後半に二度、「諸国山川掟」なる法令が公儀から出されている。また、人口1500万人を統治 することと3000万人を統治することを比較すれば、後者がその困難性を劇的に増すことは明白である。徳川権力は準戦時体制の組織、思想のため、徳川前期 の統治は武断的であった。しかし、いよいよそのレベルでは制御困難になってきていた。統治者にはそれが「道徳秩序の乱れ」と映るのは世の東西を問わない。 特に、元禄の高度成長社会に直面した徳川綱吉には被治者たちの「徳の弛緩」と映った。そこで、綱吉は列島史上初めて、下々に「徳」をお説教する君主となっ たのである。それは一面として、被治者を治者と同じく「徳」を理解し実践可能な人間であると見なすことを意味した。
〔徳川日本のモダニティ史③〕「支配からマネジメントへ ― 啓蒙の系譜(綱吉・白石・吉宗)」
第五代将軍徳川綱吉は、列島史上初めて、それまで統治者の支配の客体でしかなかった民に、「徳」(儒教的な)を求めた君主である。
それは17世紀末の人口3000万人がもたらす複雑化した国家(秩序紊乱)を、人民の「徳化」で秩序回復させようとした試みであった。忠孝札(1681年)、服忌令ぶっきりょう(1684年)、生類憐みの令(1687年)、捨子禁止令(1690年)、人身売買禁止令(1699年)、といった一連の法令のベースにあるのは、《啓蒙》なのである。京儒・木下順庵を侍講としてスカウトしたのも、綱吉の学問好きからでたものだが、この人事は後世に深甚な影響を与えることになる(これは別稿とする)。
第六代将軍の家宣の下、侍講新井白石(木下順庵の高弟)の政治「正徳の治」は実質的に綱吉の衣鉢を継ぐものだった。しかし事態の進行はそれ以上のものであり、時代は統治のテクノロジー化、すなわち「社会工学 Social Engineering」を求めていた。そこに登場するのが、不世出の啓蒙専制君主、第八代将軍吉宗の「法治国家」構想であり、荻生徂徠の儒学の「政治算術 political arithmetic 」化(=社会工学化)であった。
〔徳川日本のモダニティ史④〕「徳川社会の自己調整 田沼ペレストロイカから寛政「紀律化」革命へ」
徳川18世紀は、前世紀とうってかわり、総人口は一定に保たれ、耕地開発も頭打ちとなった。言わば、拡大し複雑化した社会という身体にあわせて、社会各所で調整が始まったのである。しかし統治身分である武士の窮乏化は一旦小康を得るが、社会規模に見合う都市化・市場経済化と、徳川国家のコンスティチューション(基本法)である石高制との齟齬は、深まるばかりだった。ここに登場した田沼意次政権は、徳川国家の二つのフロンティアを設定することで、この事態の乗り切りを図る。国土開発と対外貿易黒字である。しかし、この実質的な徳川コンスティチューションの変更は、松平定信を担いだ反革命によってあえなく潰える。
〔徳川日本のモダニティ史⑤〕「"ものいう人々"の登場 大衆社会としての化政期」
松平定信の登場以前、徳川社会では「学芸の市場競争」が現実化していた。その背景には、十八世紀を通じた庶民の平均所得の上昇、教育熱、書籍マーケットの拡大、があった。実は定信の改革も、徳川武士をその時代にふさわしい統治者身分とするためのものであった。こうして自己表現の意欲と能力を身に付けつつあった庶民、すなわち「ものいう人々」が作り上げた自前の文化、それが化政文化だった。そこには、文化を創出、享受する側面とともに、「公事」(=訴訟)を厭わず自己の権利を主張し、場合によっては天領、藩領といった統治空間を越えた「国訴」(=集団訴訟class action)をも辞さない、力強い民衆が存在した。
〔徳川日本のモダニティ史⑥〕「"世界史"との遭遇」
徳川「公儀」権力は、十九世紀初頭には、内外二つの圧力にさらされていた。内からは「ものいう人々」との対峙。外からは、西欧列強からの通商要求である。
十七世紀、十八世紀は、列島の統治者にとって「鎖国」を選ぶことができる時代であった。軍事力の点からいっても、資源輸入の必要性からいっても。しかしその「徳川の平和」二百年間において、西欧列強は財政=軍事国家化によって戦争遂行能力を獲得し、蒸気機関をはじめとするイノベーションによって著しくコミュニケーション・パワーを高めた。十九世紀における「御公儀」には、彼我の軍事力の差のため、段階的「開国」でしか対応できない状態であり、「鎖国」というオプションは事実上存在しなかったに等しい。
〔徳川日本のモダニティ史⑦〕「公儀から公議へ」
豊臣氏を斥けて以降二百余年間、徳川「公儀」権力は、真の政治的挑戦を受けることはなかった。しかし、十九世紀に入り、否応無く西欧列強という挑戦者に直面することとなった。換言すれば、「一揆」という社会契約を通じて、徳川「公儀」権力に間接統治されていた日本列島の住人たちは、直接統治する「主権」とそれを代表する権力機関を創出する必要に迫られたのだった。「ものいう人々」からの藩境を越えた行政への需要は「世論」となり、列島の海岸線の防備を実際に担う有力外様大名や武士たちからの政治的意思決定へに参画要求は「公議輿論」として徳川「公儀」権力を揺さぶり続けた。自己改革(天保の改革)を試みるも、ついには誰一人をも満足させることが出来ず、徳川権力はその「公儀」性を剥奪され「私」権力となり、空中分解を迎える。
〔徳川日本のモダニティ史⑧結〕「瓢箪から駒 誰も知らなかった"明治維新"」
徳川「私」権力の突然死は、「公議輿論」に沿って政治は行われなければならないという共通の理念はあっても、具体的な政治プログラム、青写真なしで「倒幕」を進めていた薩摩、長州、土佐、越前を含む諸勢力を困惑させ続け、当座の雨露を凌ぐためのバラック建築のような権力の創出を余儀なくさせた。これが「明治維新」の実態である。そこに必ずや、権力の一時的空白期間が生まれる。この時、力を得るのは常により過激な言説であり、その悲劇的代表例が、近世日本人の心性に根本的打撃を与えた「文化大革命」、すなわち「神仏分離」、「廃仏毀釈」であった。これ以降、明治の男たちは「兵士」となったのである。
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