いま「役に立つ」勉強は、いつか本当に役に立つのか?/ Will studying what's “useful” now ever truly be useful someday?
畑村洋太郎著『考える力をつける本』2016年講談社+α新書 、p.50より
「最近は、『この勉強をすることは、自分にとってどんな役に立つのか』と教員に訊いてくる学生もいると聞きます。
多くの大人たちが目先の損得で行動を決める風潮が強い昨今ですから、若い世代がそう言うのもわからないではないのですが、とてももったいない話だと思います。たしかに直接的にはその勉強が自分の将来に役立つかどうかはだれにもわかりません。しかし知識を身につけることで損をすることはないですし、身につけるなら必死で学んで深堀りしてほしい。知識の内容よりも思い切り深堀りして学んだ経験そのものが将来の役に立つのです。
学ぶ動機は目先の損得勘定よりも、興味のあるなしや、自分にとって必要に思えるかどうかというもっと単純な動機で動くのがいいと思います。それは考えてみれば当たり前の話で、目先の損得勘定で学ぼうとすると、苦労して深堀りしようなどと思わなくなるからです。」
つけ加えれば、上記の「役に立つ」では結局判定がつかないように、「この勉強は役に立たない」も判断不可能です。数学や英語が苦手で嫌いな子(中学生)は、「親を見ても使ってないし、勉強しても意味が無い」と減らず口をたたきます。
しかし、人間には、そして人生には、適切な時機というものがあり、それをみすみす見逃すと後で取り返すのが困難になることがある。悪いことに、この人生の真理は、その時機を過ぎてからでないと気付くことが出来ない。そんなことは子どもにわかるはずもありません。結局、大人たち(親・教師を含む)がそういう唇を噛む思いをしているか、どうか、そういう体験を子どもたちに伝えられるかどうかが分かれ目なのだと思います。まさに、
「この世界では誰も、自分が行い語ることの意味を知りえない。行為の意味は人と人との出会いの瞬間に構成され、時間と共に変転する。オイディプスが父を殺し母をめとることになったのも、王命に背いて赤子の彼を殺さず見知らぬ羊飼いに渡した召使いの善意の思わぬ帰結なのだ。」
関 曠野「知は遅れて到来する ―ドラマにおける時間について―」(1985年5月)/Seki Hirono, Knowledge Comes Late, On Time in Drama, 1985: 本に溺れたい
と、いう訳です。
従いまして、現代日本の大人たちが、(仮に)知的虚弱体質となり果てているのであれば、件の子どもたちの素直な反逆に対して、なす術なしということになりそうです。
※ご参照
孔子様とマイケル・ポラニー: 本に溺れたい
Confucius and Michael Polanyi: 本に溺れたい
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コメント
遍照飛龍 様
孔子様と科学哲学者M.ポラニー(Michael Polanyi)が実は同じことを述べています。本ブログ記事に関連リンクを貼り付けました。ご笑覧頂けますと嬉しいです。
要は、「知識」へのアクセスには、二つある。押し付けられたものか、自ら獲りにいったものか。「知識」を生かすも殺すも、それ次第ということです。
子どもは、「知識」を押しつけられる経験を重ねると、「知」というものに、新鮮な驚きや喜びを感じることがとても難しくなります(自己防衛本能のため)。それは知的好奇心の「死」を意味します。「知識」だけはたくさんストックしていても、この知的好奇心が子どもの心から失われてしまうと、社会全体の創造性、イノベーション等の枯渇に遠からず帰結します。もし、現代日本が何らかの閉塞状況に陥っているのだとすれば、この点が関連している可能性はありそうです。
投稿: renqing | 2025年9月12日 (金) 06時58分
遍照飛龍 様
渡辺京二『逝きし世の面影』1998年
における、徳川末期の欧州人の日本見聞記には、「日本は子どもの天国だ」という感嘆が残っています。
それからすると、(徳川日本が唯一の理想社会とはこれっぽっちも思いませんが)来日した、欧州人が自分の子ども時代と比べてそう感じたのは事実なのでしょう。
ということは、「維新近代化」が《子どもの世界》を捻じ曲げたのか、そもそも明治日本人が模倣した「欧州近代化」が徳川の《子どもの世界》を business 化したのか、どちらかなのでしょう。
投稿: renqing | 2025年9月11日 (木) 15時33分
返信ありがとうございます。
>「人は、学び成長する楽しさ、歓びを求めている存在である。だから、教育はその適切な手助けに過ぎないし、それ以上のことはできない。」
本当にその通りと思います。
現場の教員や学校関係者・文科省・・ていうか国家そのものがその意識が無いか希薄に思えます。
現場の教員にこれ以上負荷をかけるのは気の毒ですが、その意識の「低さ」が、教育の荒廃の一因なのです。
まあその教員を育てた国家・学校システム自体が、低レベルのですけど・・・それに気づかない。
「革命的やり直し」が教育にも不可欠でしょうかね。
投稿: 遍照飛龍 | 2025年9月10日 (水) 11時25分
遍照飛龍 さま
人は、考え、行動し、反省して、成長する生きものです。これが「学び」、「学習過程 learning」そのものです。自分が成長すること、それまでよりも「善く生きる」こと。これを実感することは、人間の真の喜びでしょう。
「人は、学び成長する楽しさ、歓びを求めている存在である。だから、教育はその適切な手助けに過ぎないし、それ以上のことはできない。」
この部分が大人たちに共有されないと、子どもたちを「対象化」して、結局はモノ扱いすることに堕してしまうという悲劇を避けられないと考えます。
投稿: renqing | 2025年9月 9日 (火) 13時38分
続・・
結局「いつか役に立つ」学問や知識があっても、それを子供の頃から習得しようとして、いじめで自殺したり精神を病んで普通に生活できなくなれば、そんなもの役に立つ前にそれが一因で死んでしまったようなものですから。
学ぶて行為自体に、意味がある・・てことが、今の教育界隈にどれだけ理解されているのか・・・学ぶ行為自体がその人の知能や知見の開悟の歩みである事が如何に軽視されているか。
実は日本の教育学は、政治や戦略論同様に、著しくガラパゴスなだけなのかもしれません。
投稿: 遍照飛龍 | 2025年9月 9日 (火) 11時35分
「いつか役に立つ」学問の学習って、
「未来に景気が良くなり、そのために金を買おう。今飢えてもいいから」
てので一種の詐欺と私は思います。
その詐欺で、いじめ・引きこもり等の精神疾患の原因を大量生産し、倫理・道徳を破壊し尽くし来た。それが明治以降に日本の学校教育の本質の一つとわたしは見ます。
習得するのでなく、学ぶ・・て行為自体が「自分の知見や能力を上げるための修行・訓練」と思います。
記憶する・習得する・事が出来なくても、それを訓練すること自体がまず「能力を上げる・鍛える」ことになると私は思えます。
結局「覚えなくては意味が無い・点数を取るのがすべて」の受験や学校の教育では、「何のために学ぶ」て動機が希薄になるのは必至と思います。
藤沢秀行が
「日々、身体を鍛えていれば、知らないうちに力瘤がもり上がっていくいくのと同じです。自分の過去を振り返っても、下手の考えを毎日繰り返して、徐々に腕が伸びてきた。」
と言ってますが、その「知らないうちに盛り上がった力瘤」を評価できる教育者でなければ、到底人を教え知識を得るようにさせるのは難しいと思います。
投稿: 遍照飛龍 | 2025年9月 9日 (火) 11時29分