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2025年11月 2日 (日)

否定の言語行為としての「物自体」――言語の外部と存在の生成について

一 問題の所在

カントが『純粋理性批判』において提示した「物自体 Ding an sich」は、通常、「人間理性の到達不可能な限界」を示す否定的概念(Grenzbegriff)として理解されてきた。同様に、フロイトの「無意識 das Unbewusste」もまた、意識の外部にありながら行動や言語を支配する未知の領域を指し示す概念とされている。両者はいずれも「知りえないもの」「語りえないもの」を名指す語である。しかし、「語りえないもの」を名指しするという行為そのものが、すでに一つの語り (act of saying) ではないだろうか。もしそうであるなら、カントやフロイトが「〜できない」と表明した瞬間、その否定表現はすでに言語の場において肯定的な存在化(positivization)を遂げている。言葉は、否定を通じても世界を構成してしまう。

本稿は、この逆説を手がかりに、「言葉の外に出られない」という命題を、単なる限界意識ではなく、存在生成の原理として再考することを目的とする。

二 否定の言語行為――「ない」と言うことの構造

言語における「否定」は、単なる欠如や無の指示ではなく、構文的・記号的な操作である。「これは机ではない」と発話するとき、話者は「机」という概念を呼び起こさずには否定できない。否定は常に肯定の影を伴う。このとき、「机ではない」という言明は、世界に「机という可能性を排除した何か」という新たな存在位置を生み出す。したがって、否定的言語行為(例えば「無意識」「物自体」「言葉にできない」)は、「言葉の外部」を指し示すと同時に、それを言葉の内部に生成する操作でもある。言葉は、語り得ないものをも「あるかのように(als ob)」存在化する力能を持つ。ここにおいて、否定は単なる境界ではなく、**存在を創出する言語的行為(performative act)**として再定義される。

三 カントの「物自体」と言語のパフォーマティヴィティ

カントにとって「物自体」は、現象の背後にあるが決して経験されえない「想定された限界」である。しかし、「物自体」という名辞を与える行為は、理性が自らの外部を構築する言語的契機でもある。カントは理性の自己限定を意図したが、その「限界」を命名することで、言語は「限界そのもの」を対象化してしまう。このとき、言語は理性の「外部」を指示するだけでなく、生成する。したがって、「物自体」とは認識論的限界ではなく、「理性が自らの境界を言語的に創出した痕跡」として再読できる。言語は、否定の形式をとりながら、存在の地平を描き出す構築的力能を持つのである。

註1 Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft, B307ff. 「物自体」は「われわれが認識しえないもの」でありながら、理性がその外部を想定するために「不可避的に思考するもの」として導入される。

註2 J. Derrida, De la grammatologie (1967). Derrida は「現前以前にすでに言語がある」ことを示し、否定的概念もまた言語構造の中で存在化されることを論じる。

四 フロイトの「無意識」と言語の構造化

フロイトが発見したとされる「無意識」は、実際には「意識の外部」を名指す言語的仮設である。「無意識」という語を知った以後、人間はそれを抜きに自己を語ることができなくなった。ここにはラカンの洞察——「無意識は言語のように構造化されている」——が響く。無意識は生理的実体ではなく、「語りえないものを語る」ための象徴的場の設定である。したがって、「無意識」という否定的名称も、言語のネットワーク内で「あるもの」として作動している。否定が存在を構造化しているのである。

註3 Sigmund Freud, Das Unbewusste (1915). 「無意識」は意識の排除作用から生まれる心理的構造として記述されるが、その概念化自体が言語的操作に依存している。

註4 Jacques Lacan, Écrits (1966), 特に「無意識の帰還」章において、「無意識は他者の言葉である」と述べ、言語が主体の構造を規定することを明示している。

五 言語の殻と生態的インターフェイス

言語は、単に世界を表す装置ではなく、人間と世界の間に生じる**境界的装置(interface)**である。人間が「自転車」に乗るとき、私たちは物理的対象にまたがっているだけでなく、「自転車」という語を通してそれを経験している。言葉は、対象を意味の地平に写し取る「マッピング装置」であり、この操作によってのみ人間は世界に関与できる。したがって、人間は「言葉という殻(shell)」の外に出ることができない。しかしその殻こそが、環境との接触を可能にし、同時に新たな存在を生成する柔軟な境界面(malleable interface)として機能している。言葉の限界とは、同時に言葉による開示の条件でもある。

註5 Jakob von Uexküll, Umwelt und Innenwelt der Tiere (1909). すべての生物は固有の環世界 (Umwelt) に生き、人間においてそれは言語によって構成される。

註6 Ernst Cassirer, Philosophie der symbolischen Formen (1923–29). 人間は「シンボルの動物」であり、象徴形式を通してのみ世界にアクセスする。

六 結論

カントの「物自体」も、フロイトの「無意識」も、もともと「到達できないもの」「語りえないもの」として提示された。だが、その否定的呼称が与えられた瞬間、言葉はそれを存在化し、思考のネットワークへと取り込む。否定の発語が存在を生成するという逆説。そこにこそ、人間と言語の不可分な関係がある。したがって、「ひとは言葉の外に出られない」とは、悲観的命題ではなく、「ひとは言葉によって世界を生成し続ける存在である」という肯定的命題に転化される。言葉は限界ではなく、生成の地平である。

註7 Ludwig Wittgenstein, Tractatus logico-philosophicus (1921), Satz 5.6: 「言語の限界が、わたしの世界の限界を意味する。」

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コメント

人がアクションを起こす前は、「有」だけです。誰かが、何を思ったか、「無」とか「空」と、口走った刹那にそれまで、「有」だけがあった何処かに、「無」とか「空」が現前して、それに気付いた他の人々が「何だ、そんな所に「無」、「空」があったのかい。気付かなかったぁ〜。」と驚愕している図、です。その「空」「無」が、近代西欧人
の驚いた「物自体」「無意識」です。しかし、もう言葉化済みなので、そこは「言葉の王国」です。
>遍照飛龍さん
>
>「無」や「空」があるから、「有」や「実」も認識される。
>
>否定されることで、その一端が見えて、その全体に迫ろうとする。
>
>て感じなのでしょうかね。
>
>だから空海が著作の中で「不可得」~認得できないを~無限の意味があると読み替える例が多々あるのですが、それを思い出します。
>
>
>インドのゼロの発見とかも近いかも。

投稿: renqing | 2025年11月 4日 (火) 15時25分

「無」や「空」があるから、「有」や「実」も認識される。

否定されることで、その一端が見えて、その全体に迫ろうとする。

て感じなのでしょうかね。

だから空海が著作の中で「不可得」~認得できないを~無限の意味があると読み替える例が多々あるのですが、それを思い出します。


インドのゼロの発見とかも近いかも。

投稿: 遍照飛龍 | 2025年11月 2日 (日) 11時31分

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