他山の石、あるいは小林秀雄のこと(2)
前稿(2018年)では、小林秀雄の語源理解に誤りがあると断じましたが、現在ではやや見方を改めています。
「critical/critique」と「crisis」とが同一語源に遡り、「判断」と「分岐点」とが連関するという語感それ自体は、確かに鋭い直観を含んでいます。小林がそこから「批評」を決断的契機として捉えようとした点は、軽視すべきではありません。
κρίνειν(krinein)=分ける・判断する・決定する
κρίνειν(krinein) → κριτής(kritēs) → judge(判断する人)→ critic
κρίνειν(krinein) → κρίσις(krisis) → decision / turning point → crisis
つまり、《語根 root》は、同じ。
ただし、その語感を踏み台にして、「批評」を過度に「危機」や「限界」と同一視する議論には、やはり詩的な意味操作の過剰が見られるように思われます。語源的連関が、そのまま概念的同一性を保証するわけではないからです。
さらに言えば、本エッセイの議論は最終的に、批評を自己へと回収する方向に収斂しており、結果として近代的主体の自己確証という枠組みを出ていません。この点で、戦後日本において繰り返された「主体性論争」と同じ円環に再び閉じ込められているように見えるのが、いささか惜しまれるところです。
前稿で、「もう小林秀雄は読まないだろう」と偉そうなことを記しましたが、小林の戦時下の一文に痺れるものがあり、先の妄言を撤回することにしました。この件につきましては、そのうちに記事化したいと思います。
参照(=前稿)
他山の石、あるいは小林秀雄のこと(1): 本に溺れたい
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