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2026年6月

2026年6月 8日 (月)

「時の context」 とは何か:未来から刷新される「現実」

「時の context」 とは何でしょうか。

それは、

「今日は、昨日のから見れば明日であり、明日から振り返れば昨日である」

ということです。あたりまえですが。

したがいまして、上記の句を拡張すれば、

「現在は過去から見れば未来であり、未来から振り返れば過去である」

とも言えます。

では、改めて「時の context」 とは何か。20世紀を代表する詩人 T. S. Eliot が百年前にこう述べています。

T. S. Eliot, Tradition and the Individual Talent(1919) から

The existing order is complete before the new work arrives; for order to persist after the supervention of novelty, the whole existing order must be, if ever so slightly, altered; and so the relations, proportions, values of each work of art toward the whole are readjusted; and this is conformity between the old and the new. Whoever has approved this idea of order, of the form of European, of English literature, will not find it preposterous that the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past.
Tradition and the Individual Talent. T.S. Eliot. 1921. The Sacred Wood; Essays on Poetry and Criticism

現在ある秩序は新しい作品があらわれないうちは完結しているわけだが、目新しい作品が加わった後でも持続したいというのなら、現在ある秩序全体が、たとえ少しでも、変化を受けなければならない。こうして一つ一つの芸術作品が全体に対してもつ関係やつり合いや価値が修正せられてゆく、これが古いものと新しいものとの順応なのである。ヨーロッパ文学とイギリス文学の形態についてこの秩序を認めた人は誰でも、現在が過去によって導かれると同じように過去が現在によって変更されるということをさかさまだとは考えないだろう。
T.S.エリオット (矢本貞幹 訳)『文芸批評論』岩波文庫(1962)、p.10

〔註〕上記引用は、弊記事より。
《経済成長》から《知識成長》へ(後編)From Economic Growth to Knowledge Growth 2: 本に溺れたい〔20121118〕

つまり、Eliot は、
「過去は現在から刷新される」と言った訳です。

それなら、当然、私もこう言えるはずです。
「現在は未来から刷新される」
と。

これが「時の context」です。

そして、この「時の context」とは、私が繁用する「履歴」から任意に切り出された部位の《意味の移動平均》とも表現できるでしょう。

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Pathos(情念)の Logos(言葉/理性)による記述の可能性/The Possibility of Describing Pathos Through Logos

弊ブログ記事から2点引用します。

*****引用開始*****

2020年5月10日 (日) 「理性の酩酊」

 僕は、高校生以来、幾度となく三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年)を読み返してきた。時折、何かの拍子に、脳裏を過(よぎ)るのは、「理性の酩酊」という、以下の三島の泉鏡花評だ。

「理性の酩酊」と私が言うのは、言語芸術である以上、われわれは言葉を通して、言葉を媒介にして感覚に落ち込むほかはないので、いずれは理性の作用に頼っているからでもありますが、鏡花の文体はこのような理性が、理性自体でたどり得る最高の陶酔を与えてくれると言っても過言ではありますまい。(1995年、p.57)

 僕は三島の小説はほとんど読んだことがないし、本書が漱石や荷風、藤村を一顧だにしないのは少し惜しいやら、むしろ三島からすれば当然なのかもしれないが、この『文章読本』が現在望み得る最高の、気品と格調を体現した「日本文学小史」であることは僕にとって否定しようがない真実だ。

2025年5月11日 (日) 「理性の酩酊」としての文学、あるいはパトスのロゴス的解放

 昔、三島由紀夫が、小説とは「理性の酩酊」だと書いていました。
※三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年、p.57)の泉鏡花評。

 書き手による言語操作は明確に意志的、理性的な行為です。書き手は、その言語操作で創り出した世界に、ひとの理性/情念未分離の「こころ」を活写します。一方、読み手は、文字を読むというロゴス的な手続きを経て、ロゴスの先にある不定形な「もの/こと」を感取します。そういう力能が「文学」にあります。私にとって下記の文がその一つです。

「・・、叉かういう打てば冴えた音を發しさうに思へる程緊密に言葉を配置した文章を書くものが、その為にどんな苦労をするかは察せられるが、その苦労をすることが出來るものにとっては文学はさうした作品以外のどのようなものでもない筈である。」
『吉田健一著作集 第16巻』集英社、1980年、p.274、「作者の肖像」より
 おそらく、文学以外のコミュニケーション・メディア、例えば、演劇、舞踊、音楽、スポーツ、武道、儀式、等。そういった身体表現メディアであれば、文学とはコミュニケーションのチャンネルが異なるので、理性/情念未分離の「宇宙」を創造可能なのでしょう。しかしそれらは、創作した端から、テンポラリーに消えていきます。その「宇宙」は、その時、その場所の共有者たちだけが感得できた五感的世界となります。だから、たとえ《理性を吹き飛ばされる感覚》や《ロゴスを超出する体験》を得ても、その時、その場から時間的・空間的に退いてしまうと、その共有者たち(私たち)は、旧態依然たる日常感覚の《私》に復してしまいます。
 
 その意味でいえば、文字で残る文学だけが、ロゴスに則りながら、ロゴスを超える可能性を持つと言えるのかも知れません。人間という存在の「わからなさ」、「不気味さ」の証明、あるいはその痕跡。それが文学の「正体」なのか。文学が基本的に「読め」ない私にとって、文学は今でも、多分いつまでも「謎」のままです。

*****引用終了*****


上述のように、いったい Logos が Pathos を記述可能なのかという「謎」は、いまでも「謎」のままです。

ただ、自分の経験上、確かにあるとしか言いようがありません。

小学5,6年の頃、いわゆる、少年少女のための世界文学全集を父親が配本毎の定期購読をしてくれました。その中に、北欧篇があり、デンマーク篇に当然、アンデルセンがありました。そこに「人魚姫」が収められていたのです。その悲劇的結末に、小学生の私は涙が止まりませんでした。いまでも、人魚姫の行き場のない痛み、悲しみを思い出すことができます。ひとは、「こころ」から血を流すことがある、と小学生の私は知ったのです。

だから、事実として、言葉(logos)が感情(pathos)を描写し、読書という極めて logical な行為が、その読み手に情念の激流を感得させることは可能であり、恐らく papyrus や、木簡・竹簡以来、二千年を超える人間体験がそれを証明していると思われます。


◆homo sapiens における二つ目の「身体」としての「こころ」

そこで、少し考えを変えてみました。これも abductive trial です。

そもそも homo sapiens の「こころ」は、言葉とともに誕生したと考えるべきではないのか。

つまり、「こころ」は言葉でできている。あるいは、「こころ」は言葉から生成された、homo sapiens のもう一つの「 vulnerable な身体」なのではないか。

それであれば、他者の「ことば」に容易に傷つき、時に血を流すことが有っても当然で、言葉通り「精神的外傷」もあり得ます。そして、他者の「ことば」によって慰撫され、外傷が癒されることもあるでしょう。

また、その「身体性」から、身体と同じように「病」におかされても不思議ではないし、《時》の経過による「傷」や「病」の自然治癒だって当然あると考えられます。また、それが「瘡蓋」のままで、何十年後でも、他者の言葉や「場」の想起によって「瘡蓋」が剥がされ、新しい「血」を流すことも十分あるでしょう。

とすれば、homo sapiens には、「身体」が二つある、と考えても許されるでしょう。一つは、主に蛋白質でできた、生物としての身体。もう一つは、言葉(言語)で生成される「身体」、いわゆる「こころ」です。

他の動物にも、その使用する《言語的な記号》の在り方に応じて、おそらく「こころ」的なものはあると推定することは可能ですが、やはり homo sapiens の「ことば」とはかなり異なるでしょう。従いまして、homo sapiens 同士の communication レベルでの、ひとと動物の交流はまず無理で、感情/情念といった「身体知」に近接する「こころ」の部分での交流となるかと考えます


◆homo sapiens における「不死」への欲望と「二つの身体」

homo sapiens は、生の起点と終点を理解しながらも、その一方で、不老不死を(密かに)欲望する生き物だったと思います。「己の体はいつか朽ち果てて塵となり土に還る」という事実を肯定せざるを得なくなればなるほど、そうではない「自己」を妄想し、欲望する。そしてついには、「文字」を生み出しました。

ここにおいて、第一の身体の不老不死は不可能でも、「こころ」という第二の身体を不老不死にする可能性が開かれました。homo sapiens が「文字」を生み出してから三千年間、倦まず弛まず、飽きもせず、「文」を産出してきたのは、その胸底に「不老不死」の欲望があったからではないか、と思います。

徳川日本の19世紀は、「文字」を手にした庶民が生産者となり、文書が爆発的に列島に溢れかえりました。それまで貴族や仏教僧、儒家的知識人たちだけの特権だった、文字に託された自己の不老不死化願望が、庶民身分にまで解放された結果がこのある種の異常事態を生み出した、と考えてみることもできるか、と思います。


◆西欧知識人と徳川日本の庶民における「書き残すこと」

おそらく、西欧知識人は、彼等の伝統の不変不朽の価値「真善美」の世界への参与する名誉を得る、という願望、欲望がその根底にあったのでしょう。

一方で、徳川日本の庶民ライターは、多分「いつか誰かに読まれればよい、嬉しい。」という気分だったのではないでしょうか。「書く」ことは、他者に「読まれる」行為によって、新たな生命を吹き込まれる。

人類史的な大思想、大哲学、大文学を「生み出す」ことで不朽の「己(おのれ)」となる、のではなく、いつか誰かに読まれることを通じて「text が甦る」ことで不朽の命を得る。これに徳川庶民は賭けたのではないか、と思われます。ただし、徳川庶民は、血相を変え、眦上げてそれを願望する、などという《野暮》なことはしません。「読まれれば儲けもの、読まれず塵に還ればそれも一興」という心の構えだったのではないか、と憶測します。

ネットワーク上の表現空間を手にした21世紀に生きる徳川日本の子孫たちが、ご先祖様の境地に至っているのか、あるいは至れるのか。私自身の行状を含め、聊か悩むところです。

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身体知と理性知:臨場性と分節性/Embodied Knowledge and Rational Knowledge: Presence and Articulation

身体知は「場」(場所や時刻)に近ければ近いほど熱く鮮明です。一方、その時、理性知はむしろ肉体の熱に引きずられ経験の分節化を阻害されます。

しかし、「場」が遠ざかれば遠ざかるほど、身体知は肉体の冷却化とともに身体へ刻まれた記憶だけを深部に格納しながら希薄化し、理性知は肉体の冷却化とともに経験の分節化へと邁進します。

「頭を冷やす」とは、上記の contextでは、《鮮明》な「経験の全体性」を犠牲にしても、「分節化」による《明晰》な「経験の言語化」を優先する、ということと理解できます。

だから、言語化された経験は、何らかの「言葉」がindexとなり、経験された身体知は、匂い、感触、味覚、等、qualia がindexとなります。

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2026年6月 3日 (水)

人間知の往還曼荼羅/The Mandala of Human Knowledge: The Outgoing and Returning

◆小さな「履歴 Log」から大きな「履歴 Log」への転記

1. Mono-Log(個の履歴)
〔定義〕個的な記録……自分が何をしたか、何を言ったか、何を書いたか、何を経験したか、何を記憶し、何を忘れたかの記録。
〔解説〕これは「個(Mono)の記録(Log)」であると同時に、他者を欠いた個人の「独白(Monologue)」でもあります。人間が限定された合理性(bounded rationality)の中で、「俺は良かれと思ってこれをやっている」と独りよがりの意味に浸っている状態。

2. Encounters-Log(遭遇者たちの履歴)
〔定義〕関係的な記録……相互に他者である個たちの出会いを通じて生成される記録であり、そこでは自分の言動が再解釈され、誤解され、認められ、あるいは変容していく。
〔解説〕Mono(個)とWorld(世界)の間には、スタティックな社会制度ではなく、「Encounters(遭遇の束)」が絶えず生成する。
個々の「独白(Mono-Log)」たちが、予期せぬ衝突を起こし、「the web of human relationships」(H. Arendt)*を編み上げていくダイナミックな現場がこの第2層。この層があるからこそ、個の物語が強制的に書き換えられる「ドラマ(演劇的現在)」が駆動する。

3. World-Log(世界履歴)
〔定義〕「世界」航海日誌(Log)への記帳……人間の行動が個的な意図を超えて、制度、記憶、物語、環境、それら全体が、ひとつの事実として「世界」という航海日誌の1頁に書き込まれ、刻み込まれること。
〔解説〕人間の行動は、まず個人的な記録に刻まれ、次に関係的な記録の中で再構成され、最終的に「この世界」の記録へと記帳される。そこでは、その「現在」の意味は未来からの context に対して絶えず開かれたままとなる《Meaning remains open backward from the future.》。

換言すれば、個のLogは最終的には「世界樹Log」の中に年輪として取り込まれるが、その年輪が「意味すること」は、「意味の探索者たち」の視界(contextの履歴的奥行)に応じて生成せざるを得ない、ということ。

*"the web of human relationships"(H. Arendt, The Human Condition, 1998, Chicago UP, pp.183-4)、ちくま学芸文庫版(1998年)、志水速雄訳、『人間の条件』, p.298「人間関係の網の目」 


◆人間知の「往」と「還」の曼荼羅

意味の生成:往の矢印】
1. Mono-Log(私の独白・行為)
  ↓ 投げ込まれる
2. Encounters-Log(他者や本との衝突・関係性の網の目)
  ↓ 刻印される
3. World-Log(世界履歴の堆積:事実としては消えないが、意味としては未来に開かれた記録)

意味の逆流=上書きの連鎖:還の矢印】
3. World-Log(後続する出来事、発見、失敗、成功、破局、再評価によって、かつての出来事が置かれていた文脈=context そのものが変化する)
  │
  ▼ 逆流(ドミノ倒し)
2. Encounters-Log(あの時の『出会い』の意味が事後的に書き換わる)
  │
  ▼ 浸透
1. Mono-Log(かつての私の『独白・行為』の意味が鮮やかに塗り替わる)


※上記は、私の abductive writing の一環です。ご感想あれば、忌憚ないコメント欄への書き込みをお待ちしています。

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2026年6月 1日 (月)

2つの「わたし」と3つのインターフェース/Two “I’s” and Three Interfaces

homo sapiens (少なくとも現生人類)は、二つの「わたし」として生きています。

一つは「生老病死」を不可避的に刻印される(された)身体としての「わたし」。その身体を「今日は朝から頭が痛い。風邪か?」とか、ふと自分の指先が視界に入り「お、なんか爪が伸びてきたな。今晩風呂上りにでも切ろう。」などと、身体を monitoring しながら呟いている「わたし」。

しかし、その一方で、「わたし」を取り巻く「世界」に晒されて、必死に Avoiding death したり、何かに夢中になり Living Life を謳歌している「わたし」は、二つの「わたし」の区別から注意 attention という資源を「世界」に全振りしているので、「私性」の消えた状態の、統合された一つの「わたし」といえます。

すると、「わたし」とその外部との接合面を interface と呼ぶなら、

1.「身体(=わたし)」を囲む interface
2.「身体を monitoring するわたし」を囲む interface
3.「心身統合された非わたし」が「世界」と直面している interface

この中で、3.は「没入」と呼んでもよいでしょう。


そして、この「没入」という状況は、仏教でいう「無我」に相当しそうです。

参考にできるのが、

「《無我》 仏教を一貫する術語。最初期には、我執 (がしゅう)を中心とする執着を排する語として用いられ、初期経典では、我を「私のもの」「私」「私の自我」の3種に分析して、いっさいのものにこの3種の否定を反復する。
小学館 日本大百科全書 三枝充悳、記述」

でしょうか。カテゴリーミステイクかも知れませんが、
①身体/延長を有するもの=「私のもの」
②monitoring するわたし=「私の自我」
③統合されたわたし=「私」
と、対比できそうな気がします。

2010年、2011年と、ドイツのブンデスリーガで大活躍した footballer である、MF香川真司は、2011年カップ戦のバイエルンミュンヘンとの決勝戦まえインタビューに答えて、
「対戦相手の情報は、スタッフから十分説明され、頭に入れてあります。でも、ゲームに臨んでは、それをすべて忘れて、身体(からだ)が動く通りにやるだけです。」
と言っていました。

多分、注意(attention)が「わたし」に全く割かれず、対戦相手だけに全振りされることは、「無我」「没我」の境地と実質同じことなのでしょう。いわゆる「zone」でしょうか。

そこまでいくと、「世界」の「筋目」、「articulation」、「line」が見えて、それに「素直」に従うことが可能となるのではないか、と思われます。

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重層的履歴論:あるいは錯綜する生の Log/A Theory of Layered Log: Or, The Log of an Entangled Life

homo sapiens は、その「履歴(Log:時の刻印)」を身体に刻んだり、言語化することで対象化(Objectification)、外化(Externalization)したりします。

「言語進化」はその典型で、その断面(cross-section)=《言語の現在》そのものに、重層的に履歴が上書きされ、畳み込まれています。とりわけ日本語は、抽象概念が漢語という外国語で、そもそもが日本人にはよそよそしい疎外的 object あるため、幾重にも「意味」を上書きしやすい。現代日本人には、positive は価値表象を持つ「自由」も、上古や中世の negative な「自由狼藉」や positive な仏教語「自由自在」的な語感を維持したまま、明治の freedom、liberte、Freiheit、が流れ込み折り畳まれ、微妙な語感を現在でも有しています。

いうなれば、言語の進化過程はその「表現型」に変化がなくとも、その「遺伝子」上には旧《意味:遺伝情報》を保持したまま、新《意味:遺伝情報》が追記的上書き保存されることが可能な「外部装置」とも言えるかも知れません。「詩/韻文」はその機能を最大限に駆使した活動でしょう。

一方で、言語化されない履歴として、人間には、「身体知」や「暗黙知」といった「個人的知識 personal knowledge」があります。これは「場」や「時」の共有という強い条件下で、「相伝」したり「共有」されたりします。

homo sapiens は、多くの他者やモノに囲まれ、それらを生きるための「資源 resources」として援用することで、bounded rationality と補完的に組み合わせ、複雑な「世界」を生きています。ということは、他者に負われた「履歴」、モノに有形にも無形にも刻印されている「履歴」をも同時にリソース化して、それらに支援されて生きている、ということになります。そして、個人を固有の人間として生かしめているのがその個的人生の履歴(Log)が幾重に重層的に刻まれた personal knowledge である、と思われます。

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未来の他者性/The Otherness of the Future

思うに、homo sapiens にとって、最大の関心は、「他者と表象される他の homo sapiens」なのだと思います。

ヒトの人生を曲折させるのは「出会い Encounter」ですし、生身のヒトではなくとも、1冊の本(これも人工物)との「Encounter」も強烈にヒトの生を捻じ曲げることだってありますから。

西欧人の第1次 globalization である「大航海時代」でも、「地球は丸い」という巨視的事実のみを頼りに、未知の海へ船出した冒険者たちは、金銀財宝を探求する以上に、未知の homo sapiens との「Encounter」に強烈に惹かれていたとも考えられます。

遡れば、7~8万年前の、「出アフリカ」でさえも、「未来=他者との Encounter」という、実は何の根拠もない、脳の発する symmetry bias にうかうかと乗せられて始まった大冒険なのかも知れません。

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