読書論 (reading)

2023年10月25日 (水)

Rose petals in the canyon

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'Writing, I said to a friend, is like dropping a stone into a deep well and waiting for the splash. No, he replied, it is like dropping a rose petal into the Grand Canyon and waiting for the bang'. (1)

Now, this is how I could throw in a single petal, too. Let's wait for the explosion slowly, shall we?

 May 2004
                                          Hokari Minoru(保刈 実)

(1)  Greg Dening, Readings/ Writings, Carlton, Vic.: Melbourne University Press, 1998, pp.xix-xx
※Minoru Hokari passed away in Melbourne on 10 May 2004, a few days after this book was drafted. (Ochanomizu Shobo editorial department)

Above,
 Minoru Hokari, Radical Oral History - Historical Practices of the Australian Indigenous Apolligini, Iwanami Gendai Bunko/ Academic 380, Iwanami Shoten, 2018, pp.314-315, 'Afterword by the author'.
Adapted from.

The above was taught from
Koji Ogawa, What is World History - For "Historical Practice" -, Iwanami Shinsho, Series Historical Synthesis wo Manabu (3), Iwanami Shoten 2023, p.32,.

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峡谷に薔薇の花弁を

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「・・・・。私は友人に、書くということは、深い井戸に石を落として、水しぶきが聞こえるのを待っているかのようだ、と言ったことがある。だが友人は、それは違うと言う。彼によれば、書くということは、グランドキャニオンにバラの花弁を落とし、爆発を待っているようなものだ、と。」(1)

さて、僕もこうして、一枚の花弁を投げ込むことができた。ゆっくりと爆発を待とうではないですか。

 2004年5月
                                                      保刈 実

注(1) Greg Dening, Readings/ Writings, Carlton, Vic.: Melbourne University Press, 1998, pp.xix-xx
※保刈実氏は、本書脱稿から数日を経た2004年5月10日にメルボルンにて逝去されました。(御茶の水書房編集部)

以上、
 保刈実『ラディカル・オーラル・ヒストリー —オーストラリア先住民アポリジニの歴史実践—』岩波現代文庫/ 学術380, 岩波書店2018年、pp.314-315, 「著者によるあとがき」
より、引用しました。

〔引用者註〕上記は、小川幸司『世界史とは何か   ―「歴史実践」のために—』岩波新書, シリーズ 歴史総合を学ぶ③、岩波書店2023年,p.32,より教えられた。

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2019年6月13日 (木)

内田樹「言葉の生成について」2016年12月(2)

 (1)の続きです。言いたいことは、江戸人の「本居信仰」(1)、ですでに書いてしまいました。

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2019年6月 1日 (土)

ミメーシスとしての読書 (Reading as mīmēsis [ μίμησις ])

 読書は、ある時点/ある場所で、ある人物によって著された文字列を、別の時点/場所で他者が読むことです。

 

■ communicate or animate?
 そのため私はこれまで読書を、読み手にとっての《他者とのコミュニケーション》、とりわけ過去に生きた人々とのコミュニケーションと考えてきました。確かに、対象の文字列は、読み手とは別の時、場所、別の書き手によって生まれています。しかし、よく考えると、書かれた文字列を読むのは読者です。《読む》という積極的な働きかけがあって初めて、読書は成立します。CDやDVDがなんらかのプレイヤーを必要とするのと同じく、本も再生装置(=読み手)が存在しなければ甦らない代物です。読み手の存在によってはじめて息が吹き込まれ(animate)、現代に再生する訳です。

■《読む》とは…
 紙片の上に、インクの染みとして残されている線状(linear)の文字列/記号列を、眼で追いながら脳細胞に流し込みます。同時に、逐次その文字列/記号列を、単語/文節/文/段落/…、と分節化(articulation)しつつ、全体の文脈への再統合を試みます。この《分節化》と《再文脈化 re-contextualization》を往復しながら、著者のメッセージの様々な読解可能性を探求します。この作業では、著者の説明の理路を忠実に辿り直します。つまり、追試、追体験、再実行と言えます。これはミメーシス「再現」(representation)そのものです。

■ミメーシスとは、模倣/再現/演ずること
 ミメーシス論の魁はアリストテレス大先生の『詩学』です。その岩波文庫版(松本仁助・岡道男訳)の訳者註(8)pp.114-5、にミメーシスの詳細な註があります。引用します。

 ミーメーシス(mimesis)の訳。ミーメーシス(動詞はミーメイスタイmimeisthai)はふつう、なんらかの対象を模倣・模写することによってその模像をつくること、およびその結果として生じる模像関係をあらわす。それは、模倣、模写のほか、ものまねをすること、俳優が役割を演じること、(手本などを)見ならうことなどの意味を含む。プラトーンはこの語を彼の哲学についても用いたが、それを文芸について用いるときは模倣、模写の面を強調し、芸術的模倣、模写によってつくられた感覚像は物事の本質(真実)をあらわすことができないと考えた(『国家』)。これにたいしアリストテレースは、『詩学』において、ミーメーシスという語をより積極的な意味で使用している。すなわち詩は、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされる行為のミーメーシスを通じて、普遍的なことを目指すことができる(ミーメーシスの対象である行為が「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」なされるというのは、行為のミーメーシス、すなわち筋(ミュートス)が「ありそうなこと」と「必然的なこと」の原理、アリストテレース『詩学』(第1章訳注)内的統一の原理にもとづいて組みたてられることを含意する)。詩は、普遍的なこと、起こる可能性のあることを語るゆえに、個別的なこと、実際に起こったことを語る歴史にくらべて、より哲学的であり、より深い意義をもつものである(九章1451b4-7)。まだそれは過去、現在のこと、人々がそうであると語ったり考えたりすることのみならず、そうあるべきことも描くごとができる(二五章1460b1-11)。
 アリストテレースにとってミーメーシスの基準は、事物が模倣・模写されているかどうかという点だけにあるのではない。本訳ではミーメーシス(およびその関連語)は、「ものまねする、手本を見ならう」などの意味で用いられる場合を除き、「再現」(representation)という訳語で統一したが、しかしこの語の本来の意味は「模倣・模写」であることを忘れてはならない。「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」という句については七章注(5)参照。

 

■学習過程(learning)としてのミメーシス
 読書が典型的な学習過程の一つであり、読書がミメーシスならば、ミメーシスは学習過程そのものです。このことは、私たち、日本語話者にとって、むしろあたりまえのことだと言えます。
 なぜなら、「まなぶ(学ぶ)」「まねぶ(学ぶ)」は同語源であり、「ならう(習う、倣う)」は文字通り自己の外に存在する模範 model をミーメイスタイ(模倣)することだからです。こういった learnnig として「まねび」「ならひ」の用例は、古事記、日本書紀から平安の女房文学まで枚挙にいとまがありません。すなわち、古来からこの列島の人々にとり、新しい「こと」を身につけるようと思うなら、まず「ならひ」「まねぶ」ことは当然だった訳です。近年のケータイ全盛以前までは、私の実感値では、鉄道の車両で、3割は居眠り、6~7割は読書していましたが、それも宜(うべ)なるかな、と今さらながら合点がいくのです。

■日本人と創造神話
 私たちの住まうこの列島の、ユーラシア大陸東端に、北と南の狭い海峡を介して、おまけのようにくっついているという地理学的現実は、最終氷期以降、縄文時代から1万年間変化がありません。簡単にいえば文明の終着駅です。これを「ターミナル文化」と客観的に言ったのは、東洋史家宮崎市定*でした。言い得て妙、でしょうか。この文明の地理学からして、originality、creativity、といったことを言い募るのは、野暮であり、未熟さの裏返し、というものなのだろうと考えた次第です。

* 宮崎市定『古代大和朝廷』1988年筑摩叢書(327)、p.210 古代大和朝廷 (ちくま学芸文庫)

 

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2018年3月 9日 (金)

借りた本はサッサと読んで貸主に返しなさい(by 本居宣長)

 宣長の、本を借りたら読んで早く返しなさい、のエピソードは下記にあります。

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2017年11月26日 (日)

高校の図書室にまつわる回想

 高校では割と図書室に入り浸っていた。帰宅部だったこともあるし、図書室司書のお姉さんの魅力に惹かれたこともある。

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2017年8月28日 (月)

言葉は意味を孕んでいる Language conceives meanings and images

 言葉は意味やイメージを孕んでいる(Language conceives meanings and images.)。

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2015年5月 2日 (土)

読書をすると頭が良くなるか?(2)

 「読書をすると頭が良くなる」理由を二つの角度から考えてみる。

■本の情報量は少ないが故に、読書すると頭が良くなる

 20世紀後半に一般人にも操作可能な個人向け計算機が実現し、そのハードとソフトの技術が爆発的に発達したため、人類史規模において有意味な言語やイメージ情報の生産、加工、伝達、消費の仕方が根本的に多様になった。今では、人と人の間を、有意味な文字や絵で結びつける媒体(メディア)は、かつての主流であった石、木材、紙片から、送受信可能な機械に比重を変えた。とりわけ、現代では本・雑誌という紙媒体からPC・スマホ等の電子機器媒体に主流が変わった。やり取りされるコンテンツは、数千年前から相変わらず有意味な文字(テキスト)・絵(イメージ)だが、現代ではメディアの高性能化でそこに動画も加わっている。

 一般に、電子メディア上のファイルサイズは、テキスト<画像<動画である。したがって、HDDに保存するときも、テキストから動画になればなるほど記憶容量を喰う。つまり、それだけ情報量が多いことになる。逆に言えば、テキスト・データの情報量はスカスカなのだ。スマホで動画を頻繁に見ればバッテリー残量が急減するのも道理だ。「百聞(や百言)は一見に如か」ないのである。

 このことを身体の動きから見るとどうなるか。一般に身体の動きが少なくなればなるほど筋肉量が減り、脂肪が増える。脳細胞も使えば使うほど活発になり(賢くなり)、使わないと衰える(悪くなる)。すなわち、電子メディアで画像や動画を閲覧するときの脳の活動負荷は、ファイルサイズを想起すればわかるように本を読んだときに比べると圧倒的に少ない。テキストデータの塊の本は情報量としてはスカスカのため、脳のイメージ喚起力を使わない限り、コンテンツ内容をうまく咀嚼できないわけだ。データがイメージやムービーであれば受け取れる情報は膨大だが、その分、脳の活動余地は狭まる。頭脳を引き締まった筋肉質にしたいのであれば、電子メディアの画像や動画ではなく、読書すべきである。

■読書は時間と空間を越えた他者とのコミュニケーションだから頭がよくなる

 数学者の故森毅は、友には己と異質な人間を選ぶほうが面白い、と盛んに述べた。森は友人には心の安らぎではなく知的刺戟を求めるタイプだったのだろう。

 書籍のすごいところは、時間と空間を軽々と超え、他の時代、異国の筆者と会話できることだ。そして、自分と異なる他者であればあるほど、己の頭脳をフルに活動させ、想像力を働かせなければ理解できない。異質な他者を理解するためには、「他者の立場に自分を置いてみる」ための想像力をフルに稼働させない限り、永久に理解できないからである。
※Max Weberの言う Kulturmensch(文化人)の立場。
※例えば、「枕草子」であってもそう。 参照弊記事⇒身分と労働

 人類文明史が古代メソポタミアを嚆矢とするなら約7千年ほどあるが、その分厚い文明史の知的遺産の中で、画像データや動画データでアクセス可能なのは高々ここ二十年間に作成されたコンテンツだ。従って、残りの6980年分ほどは書籍という紙媒体を通じてしか知り得ない。人類の知的遺産のデジタルデータ化は進められてはいるし、進めてもらいたいが、これも究極的には手作業なのでそう簡単にはすすまない。それからすれば、PC、スマホ経由の情報だけを消費している限り、頭をよくする膨大な機会を失っていることになるだろう。

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2015年5月 1日 (金)

読書をすると頭が良くなるか?(1)

「読書をすると頭が良くなる」

 これは多分まちがいない。少なくとも、私は頭が良くなったと実感している(笑)。

 今思い返すと、私の小・中学の時代はあまり頭が良くなかった(苦笑)。小学生のとき、亡き父が予約購読してくれた、「小学館カラー版少年少女世界の文学」という全集を手にした。アンデルセン「人魚姫」やアナトール・フランス「聖母と軽業師」、三島由紀夫「潮騒」、魯迅「阿Q正伝」などはその時に読んだと記憶する。

 他は、百科事典を牛が草を食むようにぶらぶらと文字通りブラウジングすることは好きだった。その頃の流行で、亡父が Encyclopedia Britannica を本棚の飾りとして奮発したので、拾い眺めながら雪舟やその絵、のような日本関連記事を見つけて喜んだりしていた。しかし、一冊の本の世界を探検するような読書ではなかった。おかげで、学校の成績は中の上(中の中か?)あたりをうろうろしていた。

 少し読むようになったのは、高校に入り電車通学をするようになってからだ。通学中持て余した時間に文庫を読むようになった。何故かわからないが、高1の最初に手にしたのがトルストイの「復活」。そんな重いものを通学中の電車の片道数十分で読まなくてもよさそうなものだが、トルストイの名とタイトルに引かれて(かつてあった)教養主義的な強迫観念で読んだものと推測する。結局、面白くなかった。これがトラウマになったのか(どうか不明だが)、その後ロシア文学とは縁が切れた。成人後、読書会の課題本でドストエフスキーの「地下室の手記」を読んだくらいか。こちらもとんと脳裡に残っていない。

 通学中にそんな堅い本を読むことの無益を知った私は、その後は肩のこらないSF(平井和正や小松左京)のようなものを次から次へと読んだ。高校の現代国語に当時は採録されていた鴎外の「舞姫」や、擬古文の明治文学の流れで一葉の「たけくらべ」をその合間に挟んだりしていた。

 この頃からどうも私は頭が良くなってきたらしい(笑)。上記のような本のコンテンツ(エンタメ系のSF)で頭脳を鍛える効果が果たしてあるのか、いささか疑問ではある。しかし賢くなった(らしい)証拠はある。当時、高校の教師二名から、授業中「彼は頭が良いね」とコメントされたことがあるからだ。一人は高1現国の若い教師。芥川龍之介「羅生門」の読解で発問に答えたときにコメントされた。もう一人は高2物理のベテラン教師。この時はなぜか化石の話題が出てその発問に答えたとき。しかし学年順位は相も変わらず中の上あたりで鳴かず飛ばずだったので、学力に関する当時の自己認識はあまり冴えたものではなかった。

 大学に入り、1年の教養系の講義では4月はガイダンスが専らなので、そこから「読むべき本」リストが頭にインプットされた。丸山真男、大塚久雄、Max Weber、Karl Marx、等。ありがちがリストだが、それでもこういうガッツリ系の歯応えのあるものに悪戦苦闘し始めた。一方で、梅棹忠夫 「知的生産の技術」を知り、工学的な分野以外にも技術・方法論が存在し、その重要性にも気が向くようになった。本に傍線を引き、思い付きをその頁に書き込みながら読むようになったのは梅棹後だ。その習慣のため図書館を利用することは難しくなってしまった。ただ、この時点では学問の新鮮な魅力に引かれ、論文のようなものを優先的に読んでいたので、本格的な読書はまだだった。Weberの「倫理」を大塚・梶山訳の岩波文庫で2回ばかり読んだから、これは「読書」の名に値するものだったが、今から思えば、じつはこれも「本」ではなくて、その実態は「論文」だったことにいま気付く。

 結局、「読書」をし出したのは、仕事を始め、自分の金で自由に本を買えるようになってから(傍線・書き込みをしないと読めなくなっていたので)。20代前半から半ばにかけて、渡辺慧「生命と自由」が転機になり、考えることの愉しさを知った。その頃は通勤の往復で、渡辺慧、柳瀬睦男、柴谷篤弘等の科学方法論、科学哲学を読んでいたはず。

 そのうち、奇縁からある読書会に出入りし始めて私の本格的な読書人生が再スタートした。だから頭が良くなってきた自覚があるのは、読書量が増えた成人以降であり、それも20代半ば以降からと言える。 

 と、ここまでが前置き。随分長いイントロだったが、つらつら思い出しているうちに思わず長くなってしまった。本論は、(2)へと続く。

〔参照〕高校の図書室にまつわる回想

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2014年4月11日 (金)

読書における刺身とつま

 ひとが何か文字や記号を書き連ねて、何かの媒体(紙でも、HDDにでも)に記録するという場合、必ず「誰か」に宛てて「なにか」書いているのである。

 こう書くと、反論される向きもあるかもしれない。日記や備忘録はどうするのか、と。それでもこの議論は成り立つ。日記や備忘録は、明日の自分という他者宛のメッセージであると解釈できるから。

 今日の自分と明日の自分は全く同じとは言えない。なにしろそれを積み重ねてウン十年経てば、明らかに肉体は変形し、顔に皺が増え、髪は白く(薄く?)なっている。数十年間で異なっているなら、一日の積み重ねが数十年なのだから、ほんの一日でも少しづつ異なる自分になっているはずだ。したがって、たとえ全くプライベートな日記やメモ帳でも、《他者》宛てのメッセージと言ってよい。

 少し、話題がずれた。ま、とにかく、何がしかの文字を書き連ねることは「他者」宛てのメッセージであるとする。本などに書かれた文章(文字列)などはその典型だろう。問題はその中身である。

 その「誰か」宛ての「何か」であるが、その「何か」の中には、著者や筆者の伝えたいメッセージと、それを受け入れてもらいたいが為に書く、論拠や証拠、事例などがあるはずだ。

 著者や筆者が他者に伝えたいと思い、他者にアクセプトしてもらいたいと願うこと、それが主題だ。その目的のために書く周辺的なこと、これが論拠や根拠、具体例であろう。

 すると、主題が《刺身》だとすると、それ以外が刺身の《つま》ということになる。読書で肝心なのは、文中の何が《刺身》でどこが《つま》なのかを見分けることだといえるだろう。ただし、書き手における《刺身》と《つま》が読み手にとっても同時に《刺身》と《つま》である保障は、残念ながらない。

 私にとり卑近な例でいえば、Max Weberの一連の著作などは、その膨大な註が私には興味深いことが度々であり、おそらくMax Weberの著作物において著者本人の意図した《刺身》と《つま》は、私が受容する《刺身》と《つま》とは異なる可能性が高い。

 また、古典などというものは、何百年、何千年とその《刺身》と《つま》の区分が唱えられてきて、提唱者ごとに少しずつ異なっているもののことだろう。

 私が秘かに自戒するのは、まず著作者の《刺身》と《つま》を見分けたうえで、己の《刺身》と《つま》に重点をずらす、という読書法であるべきだな、ということ。結構、我流(思い込み)で《刺身》と《つま》を自分の頭にインプットしている本もありそうだ、と思い当たる節も少なくないので。

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