アンテ・フェストゥム(ante festum)と techno-cult/ ante festum, or Techno-cult
「近代 modernity」に関して、そこに暮らす人間たちには、共通の感性的特徴がありそうです。3つ取り上げます。弊ブログ記事1点と私の二つのメモです。
(1)弊ブログ記事からの引用
感覚の階梯、あるいは改訂〔2019年4月13日 (土)〕
経済成長とはなんでしょうか。辞書的定義は、国民経済の規模が、年々拡大すること、となります。
もっと直感的言うと、私たちが使用する日用品、食べ物、こういったものが、年々、その量が増え、品質が向上すること、また、私たちの暮らす住居や使用する建築物、都市や公共インフラがより大きくなったり、より便利になったりすること、と考えてよいでしょう。
これは個人の感覚レベルで言えば、年々、自分の着るものがより豪華になったり、高級になったりすることでしょうし、これが国民全体が一様にそれぞれの所得に応じて、社会全体に感じられるようになることでもあります。
とすれば、経済成長とは個々人の側から言えば、年々の環境の変化と同義です。それも数百年間といった「じわーっ」とくるようなペースではなく、数年とかせいぜい、十数年程度で、「ピンピン」と肌でわかる変化です。
人は、日常に異変がおこれば驚きます。ドキドキしたりします。これは一種の興奮状態です。つまり、経済成長とは、人間の感覚レベルで言えば、常態化された軽い興奮の持続、ともみなすこともできます。
この事態を柳田国男はこう言っています。
・・・、それよりも強い理由は褻(け)と晴(はれ)の混乱、即ち稀に出現する所の昂奮といふものゝ意義を、段々に軽く見るやうになったことである。実際現代人は少しづゝ常に昂奮して居る。さうして稍ゝ疲れて来ると、始めて以前の渋いといふ味はひを懐かしく思ふのである。
柳田国男『明治大正史 世相篇』東洋文庫No.105、平凡社 、p.11
現代の私たちが、近代経済成長が開始する以前をみるとき、どうにも分からなくなる時があるのは、ある種の「感覚」にズレ、あるいは断絶がある、からということも頭に入れておくべきでしょう。
(2)私のメモから(その1)
川北稔『イギリス近代史講義』講談社現代新書(2010年)
「しかし、つねにそれまでより、よい生活をしなければならないという考え方が、資本主義の別の意味での定義なのではないか、と私は思っています。」(p.66)
著者川北は、同書でこのことを、「成長パラノイア」とも呼んでいます。
(3)私のメモから(その2)
木村敏『時間と自己』1982、中公新書
「分裂病者のアンテ・フェストゥム意識 ante festum
分裂病の患者は、つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界よりも、よい多く兆候の世界に生きているといってよい。中井久夫氏の表現をかりれば、彼らは「もっとも遠くもっともかすかな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」(『分裂病と人類』東大出版会p.8)。この表現にささやかな修正を試みるとすれば、分裂病者は未知なる未来の兆候を「あたかもその事態が現前するごとく」恐怖し憧憬するというよりは、むしろその事態がまだ現前していないということに恐怖と憧憬を抱くのだと言うべきだろう。すでに現前している事態に対しては、それが更なる未来の兆候として読まれるのでないかぎり、分裂病者はむしろ驚くべき無関心さを示す。」同書、p.86-7
「 つまり、分裂病者でなくても、われわれ人間のすべてにとって、将に来るべき未来という時間様態は、自己の実存的な自己実現を可能ならしめる現存在の意味方向として、ほとんど特権的ともいえる重要性をもっている。自己は自己であり続けるためには、そのつど新たに自己にならねばならぬ。この「自己になる」という契機を可能にしているのが、将来的未来ともいうべきこの時間様態なのである。」同書、p.89
「未来先取り的な人たち
これまでのところでは、このアンテ・フェストゥム意識あるいは未来先取的な時間構造を、精神分裂病という異常な病的事態の特徴として取り出してきたが、これをわれわれの正常な日常性にはいっさい含まれない、それ自体異常な意味方向であると考えることは誤りである。未来が未知なるものの、極限的には死そのものの代名詞として、憧憬と恐怖を誘うということには、分裂病者のみでなく、有限な個別的生命を生きている人間のすべてについて語りうることなのである。われわれの多数が正常で健康な日常生活をいとなんでいるのは、この未知なるもの、反自己的・反生命的なるものに対する有効な対応策がとられている限りのことにすぎない。」同書、p.95
「分裂病者というのはこの最後にあげたタイプの、つまり自己自身を内部から否定しようとする未知性に対する保護膜が弱すぎて有効な遮光がえられないタイプの、もっとも極端な場合だと考えることができる。同じタイプに属しながら分裂病の発病にまでは至らなかった人の数は、現実の分裂病者の何倍にも及ぶだろう。こういう「分裂病親和的」な人たちは、なんら病的な分裂病性の特徴を示すことはないけれども、分裂病者とのあいだに一つの共通点をもっている。それは、この人たちにとっては世界がそのつどの自己の自覚を促す未知性をおびて現前し、したがって彼らはそのつど未来の可能性を先取りすることによって、いわば未来の先を越すという仕方で自己実現を達成しようとするということであり、要するにアンテ・フェストゥム的な意識や行動の様式を身につけているということである。」同書、p.96-7
以上、3点です。
最後の引用で、
「この人たちにとっては世界がそのつどの自己の自覚を促す未知性をおびて現前し、したがって彼らはそのつど未来の可能性を先取りすることによって、いわば未来の先を越すという仕方で自己実現を達成しようとする」
と引きました。
これを読んですぐ思い出すのは、西海岸LA、シリコンバレーあたりに出没する、Cult-technologist、や、なにかというと、すぐ The Singularity を祭の神輿に担ぎまわって、お祭り気分の騒々しい連中、のことです。
半世紀も前の、ローマクラブ報告「成長の限界」が、ますますそのリアリティを増しているのに、AIで知的限界突破、核融合でエネルギー限界突破、遺伝子編集で食料限界突破とか言っている人々が絶えないのは、現代世界で elite と呼ばれる一群の人々が、一種の「病気」、といって悪ければ、常に、軽い「ante festum」状態にあるからではないか、という疑いを私は深く持っています。





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