平川新 (Hirakawa, Arata)

2019年5月26日 (日)

江戸人の「本居信仰」(1)

 言葉/message には送り手と受け手がいます。

 ブッダ Buddha 、孔子 Kǒng zǐ やイエス Jesus が言葉を残す。それを誰かが受け止める。歴史上の偉大な人物や思想家の言葉は、テキストとして残り、それを後世の人々が読むことになります。そのとき、私たちはその人物が「なんと言ったのか」、その発言の「真意はなにか」という点に注目します。その人物の言葉や行動が気になり、もっと知りたいと思うから、その書を繙(ひもと)くのですから、当然です。

 しかし、へそ曲がりで、多数の人々の織りなすに軌跡としての歴史に関心のある私は、《聖人》たちが「なに」を「どう言った」か、よりも、人々がそれを「どう受け止め」てその後「どう行動したのか」に興味がいってしまいます。

 この日本列島の初期近代(early modern age)に、本居宣長(親から与えられた名は、小津富之助)という人物がいます。生まれたのが1730 (享保15)年、没したのが1801(享和1)年 ですから、徳川18世紀を丸々生き切った計算です。この人の名を聞くと、年配の方なら、「かんながらのみち(惟神の道)」といった言葉を思い出して、昭和初期の暗い日本を連想してしまうかもしれません。生業は医師(薬師)です。この列島が生んだ最も偉大な学者の一人で、流布している古い宣長像に反して極めて明晰で、論理的な頭脳を持つ人物です。徳川中期の伊勢松坂という、大きな波乱もなく静謐な生活の中で、己の才を発揮するために天寿を全て使い切りました。歴史上、往々天才は薄命なものであることに比べると、幸運な人とも言えそうです。

 これだけの人ですから、現代も含め、後世に正負ともに大きな影響を残しています。無論、彼の学問的遺産やその思想が優れて巨大なものだったことがその理由ですが、宣長の思想や学問はなにか、と問い続けている限り、彼の歴史上の意味は分かりません。宣長を他の人々はどう受け止め、どう宣長を語り、そしてどう行動したのか、を知らないと、歴史への影響力を実測できないと思います。下記はそのサンプルです。

Screenshot_20190526-he13_03474_0012_p000  左の画像にマウス・ポインタを重ねて拡大画像を見て下さい。真ん中、右下の置時計風の絵の下に「本居信仰 もとおりしんこう」と、字とともにご丁寧に振り仮名までふってあるのがわかります。これは、1809(文化6)年に出版された、変体仮名・草書体漢字で印された木版本(いわゆる和本)です。宣長が没して8年後に出されていることになります。

 二つめの画像は、当該の頁すべてのものです。「本居信仰」以降を読んでみましょう。画像が不鮮明で、印字の状態もよくありません。さらに困ったことに現代の活版印刷の本とはかなり異なり、読むのが難しそうなので、私はあんちょこを利用させて頂きます。すると、こう読めます。

 

He13_03474_0012-2本居信仰にていにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかな人がらよき婦人二人おのおの玉だれの奥ふかく侍るだらけの文章をやりたがり、几帳のかげに檜扇でもかざしてゐそうな気位なり  けり子「鴨子さん、此間は何を御覧じます」と  かも子「ハイうつぼを読み返そう存じてをる所へ、活字本を求めましたから幸ひに異同を訂してをります さりながら旧冬は何角と用事にさえられまして、俊蔭の巻を半過ぎるほどで捨置きました」  けり子「それはよい物がお手に入りましたね。」  かも子「けり子さん、あなたはやはり源氏でござりますか」  けり子「さやうでござります。加茂翁の新釈と本居大人の玉の小櫛を本(もと)にいたして書入をいたしかけましたが俗びた事にさへられまして筆を採る間がござりませぬ」   かも子「先達てお噂を申た庚子道の記は御覧じましたか」   けり子「ハイ見ました。中々手際な事でござります 志かし疑はしい事はあの頃にはまだひらけぬ古言などが今の如ひらけて、使ひざまに誤のない所を見ましては校合者の添削なども少しは有つたかと存ぜられますよ」  かも子「何にいたせ、女子であの位の文者は珍らしうござります 先日も外(ほか)で消息文を見ましたがいにしへぶりのかきざまは手に入った物でござります」   けり子「さやうでござります。何ぞ著述があつたでござりませうね。」   「世に残らぬは惜しいことでござります。ホンニ怜野集をお返し申すであった。永々御恩借いたしました。有りがたうござります」

He13_03474_0012-3 この三つの画像は、すべて同一の和本からのもので、式亭三馬『諢話浮世風呂』2編の序題:女湯之巻。文化6年の再刻本です。出典は優れた古典籍コレクションを有する早稲田大学図書館様の下記サイトからDLしたものです。

 

古典籍総合データベース 浮世風呂. 前,2-4編 / 式亭三馬 編 ; 北川美丸 画

 そして私が上記和本のあんちょことして使用したのが、国立国会図書館(NDL)デジタルコレクションの下記です。

①明治18年 諢話浮世風呂
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②明治41年 浮世風呂

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 本居宣長は、没して10年も経たないうちに、式亭三馬『浮世風呂』によって、笑い話の種として使われました。ということは、生前からその盛名が、遠く江戸まで鳴り響いていて、富裕な町人の妻たちの日常会話に既になっていた。それもゴシップの類というより、サッカレー(W.M. Thackeray,1811―1863)が『スノッブ読本The Book of Snobs』(1848)で、イングランドの中産階級(middle class)のsnobbismを揶揄した現象と事実上同じものがあった、ということです。そして、より重要な事実は、「本居宣長の学問/思想」とされていたものが、徳川庶民にとって特別に知的なことではなく、ちょっと知的に気障なことぐらいのポピュラリティを得ていた、普通の会話アイテムになっていた事でしょう。こういうところに現れる「当たり前さ」が、普通の多くの人々をそれとは知らずに動かす、「思想」の真の影響力であると私は思います。

※参照 思想史研究における生産者主権と消費者主権: 本に溺れたい

 また、同一の書物であるにも関わらず、文化6(1809)年の『浮世風呂』の和本の木版書体と、①明治18(1885)年の洋装本の活版書体、また②明治41(1908)年の活版書体がそれぞれかなり変化していることに気付きます。

 ②は活字が使われていますが、ところどころ変体仮名がまだ使われています。③は、②と同じく活字書体ですが、変体仮名はかなり減り、その代わり、漢字の当て字が急激に多くなっています。

 変体仮名は、一音にも様々な漢字から変形した何種類かの字体が使われていたものです。平安の古代から、明治33(1900)年まで。明治33年33 に、小学校令が改正(左記、画像参照)され、そのときの施行規則第16条で、一音に一字の仮名が確定・制定されました。つまり、変体仮名の使用禁止です。徳川期の木版印刷物は変体仮名/草書体漢字、明治前期の活版印刷物は、多少減りましたが変体仮名は使われていましたので、明治33年以降に初等教育を受けた日本人は、基本的に、それ以前の印刷物、特に徳川期の木版印刷物(和本)は、読むことが出来ない事態となっていた訳です。

 弊ブログで何回か触れましたが、国文学者中野三敏氏によれば、徳川期に写本や木版印刷で出版され、流通した書物で、明治以降、文部省制定の正書体仮名で活版印刷化(翻刻)されたものは、大きく見積もっても、徳川期総流通点数の1%を超える程度とのことです。逆に言うと、私たち現代日本人は徳川270年間の書物のうち、99%を実は知らない蓋然性が高く、それらを読まないままで論じて来ていたことになります。

 中野氏以外にも、歴史学者平川新氏が、「日本には数億点の歴史資料が未発見・未整理のままに眠ってい」て、「多くは江戸時代や明治時代に村役人を務めた旧家に保管されてい」ますが、もし「これらが全部発見され歴史研究に活用されると、これまでの歴史解釈や歴史理論の多くはひっくりかえるのではないか」と述べています。『戦国日本と大航海時代』/平川新インタビュー|web中公新書

 この数億点の文書類は、当然徳川フォーマットである、変体仮名/草書体漢字で書かれていますので、問題はかなり大きいと思われます。

(2)へ。

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2019年5月13日 (月)

市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書(2019年1月)

 本書を読了しました。第一に思ったことは、よくこの容量(全189頁)で、これだけの内容を盛り込んだな、というものです。

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2019年4月 7日 (日)

平川 新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018/04)〔補遺〕

 以下、amazonレビュー版です。同工異曲ですが、ご参考になれば幸甚。

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2019年4月 1日 (月)

平川 新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018/04)〔4/結〕

〔3〕での議論はこうでした。

化石資源(石炭)を燃料とする熱機関が搭載された陸上輸送手段(鉄道)が登場する19世紀半ばまでは、海上輸送(船舶)が陸上輸送(人力、畜力)より圧倒的にエネルギー効率が高かった。だから、帆船(商船および軍艦)のテクノロジーを飛躍的に発達させた近代西洋が世界を支配できた。

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2019年3月25日 (月)

平川 新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018年4月)〔3〕

 〔2〕 で述べたことは以下のことです。
「戦場が home か away か、陸戦か海戦か、という側面からみると、16世紀から17世紀にかけて、日本列島の全体あるいは一部が、イスパニア王国を含むヨーロッパ勢に占領(あるいは植民地化)されなかったことが、列島の近世統一権力が軍事的に世界最強だったことを必ずしも意味しない。」
 少し迂遠のようですが、ヨーロッパのアフリカ・アジアへの侵略がなぜ陸路からではなく海路からだったのか、という問題を、実験歴史学(or アブダクション史学)の観点から考察しておきます。

◆輸送機関のエネルギー効率の比較
 陸路と海路の選択を考える場合、その大前提として陸上輸送と海上輸送のエネルギー効率を理解しておくべきです。ただ、大航海期の輸送手段の効率性を実験(シミュレーション)的に検証する、というような研究は、文献史学や技術史のなかでは、なされていないようなので、仕方なく、現代のデータから推計してみます。下記は昭和54年度運輸白書からのものです。下記の2表のうち(2)貨物、を見て下さい。

 鉄道のエネルギー効率を1とすると、船舶(内航)は1.2、トラックは6.4です。トラック6.4/船舶1.2=5.3(倍)。この比較は、今から40年前のもので、鉄道は電力、船舶・トラックは内燃機関使用がそれぞれ中心です。軌道上を走る電力モーターの鉄道の効率は、現在の輸送機関でも最高のものだと思われますので、それと比較しても、船舶のエネルギー効率はかなり優れているといえます。15世紀に、鉄道もガソリン内燃機関で駆動する自動車もないわけですから、陸上輸送は、人力か、馬(荷駄馬、あるいは馬車、ラクダ等)等しかありません。

◆クルマ vs. 船舶
 前項の表でわかったことは、トラックのエネルギー効率は船舶の5.3倍ということでした。これは相対的な比になりますので、カロリー単位で船舶の効率を試算しておきましょう。下記のグラフをご覧ください。この計算でいきますと、クルマ(2t車)のエネルギー効率は、0.8cal/1km-1gです。とすると、クルマ0.8cal/5.3(倍)=0.15cal、となり、船舶は自転車なみのエネルギー効率となります。

◆重量物輸送における船舶の圧倒的優越性
 次のグラフのように、この効率性は重量が増えれば増えるほど向上します。陸上輸送機関が、人力か畜力(+車輪使用)しかない大航海時代において、船舶による輸送のエネルギー効率の、絶対的優越性がわかります。これはカロリー計算によらずとも、当時の輸送に関わる人々も当り前に実感し(「船は楽だぁ」)、了解していたはずです。日本列島の江戸のような近世都市に、やたらと掘割があって人も荷駄も小舟で行き来していたり、鉄道輸送が出現する前のイギリスに無数の運河が掘削されたのも当然です。

◆《産業革命》以前に完成する「海からの」世界支配
 西欧人は、手漕ぎボートのガレー船からガレオン船のような大型化した帆船に、成人男性以上の重量の大砲を搭載することで、野戦上での鈍重さという大砲の戦術的弱点を、海戦において解決しました。そして武装した海上輸送(帆船)による人や貨物の効率的大量移動を実現しました。このイノベーションが、近世・近代ヨーロッパの「海からの」世界支配を支えていたことは明らかでしょう。それは、産業革命が起きる前のことです。

 念のため申し添えれば、帆船輸送の最盛期は、実は19世紀です。熱機関の船舶が、旅客・貨物で一挙に帆船を抜き去るのは、19世紀末から20世紀初頭ですし、ペリー艦隊の来航(1853年)は、蒸気機関の軍艦によるものでしたが、太平洋という長距離の外洋では帆走していました。蒸気力によって外輪を駆動していたのは、近海のみです。

〔4〕へ続く

※参照リンク
1)昭和54年度運輸白書〔3 輸送機関別エネルギー効率
2)移動のエネルギー効率の2のつグラフ〔図録▽移動のエネルギー効率比較(動物・乗り物)
  社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune、様より拝借
3)『戦国日本と大航海時代』/平川新インタビでュー|web中公新書

 

平川 新『戦国日本と大航海時代―秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書(2018/04)

※ご参照
〔1〕
〔2〕
〔3〕
〔4/結〕
〔補遺〕

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2019年3月15日 (金)

平川 新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018/04)〔2〕

〔1〕において、本書の記述不足を二つ挙げました。

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2019年3月 8日 (金)

平川 新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018/04)〔1〕

 話題の書、と言ってよいでしょう。初版が2018年4月25日、手許にある版が2018年9月20日4版となっています。なぜそんなに売れているのかと言えば、帯に踊っている「日本はなぜ『世界最強』のスペインの植民地にならなかったのか」という惹句が効いています。
詳細目次は、本記事の最下段をご覧ください。

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2010年2月22日 (月)

坂野潤治+大野健一『明治維新 1858-1881』講談社現代新書(2010年)

 本書は三つのパーツに分かれます。第1部 明治維新の柔構造、第2部 改革諸藩を比較する、第3部 江戸社会――飛躍への準備、の三部構成です。

 

 第1部は、坂野氏の最近の持論(←『日本憲政史』『未完の明治維新』
など)を書き直したもので、坂野氏のよい読者なら、用語などに変更はありますが、それほど目新しいものはありません。本記事最後の詳細目次を見ればある程度内容も推測できるでしょう。

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2009年11月14日 (土)

「会読」を巡って

 「会読」なる語をご存知だろうか。一冊の本を数人で輪読しながら、その内容や関連することにつき議論するという学習形式のことである。現在も、大学等のゼミや市民相互の自主的な勉強会などでも使われているメソッドである。

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2009年8月 3日 (月)

列島におけるデモクラシーの出現

「第二は、1866(慶応2)年、第二次長州征伐とともに未曾有の米価高騰の事態となり、いわゆる世直し状況下に突入する問題である。この場合、在地での豪農商層による爆発阻止の必死の調整努力がうまく機能しなかった地帯において世直し一揆が展開したのであるが、一揆が展開した地帯にしろ、展開するにいたらなかっ地域たにしろ、内包していた問題(民衆の下からの恐るべき圧力)は同一であり、全国の豪農商層は、この段階で、幕府の国内統治能力に見切りをつけたと、筆者は考えている。」 宮地正人「総論」、維新変革と日本、シリーズ日本近現代史1、岩波書店(1993年)、P.12

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