Machina ex Deus ――《神》仕掛けの《機械》、あるいは《神》と《人》の「とりかえばや物語」
Ⅰ 敬虔な出発点
17世紀の自然哲学者たちは、決して軽薄な合理主義者ではありませんでした。彼らはむしろ、深く敬虔であり、誠実であり、勤勉な探究者でした。
たとえばデカルトは、人間理性を神の完全性に結びつけることで、自然認識の確実性を保証しようとしました。またニュートンに至っては、生涯の相当部分を神学研究に費やしています。
彼らにとって、自然法則の探究とは、神の秩序を読み解く行為であったと言えるでしょう。その動機の誠実さを疑う理由は、ほとんどありません。
Ⅱ 成功しすぎた信仰
しかし、問題はここから始まります。
彼らの企ては、あまりにも成功してしまいました。自然は、数式で記述され、モデル化され、再現され、予測され、制御される対象となっていきました。神の秩序は、次第に理論や装置、制度へと翻訳されていきます。
そして、その翻訳が完成した瞬間、それはもはや神ではなくなりました。それは、人間の管理対象になったのです。この転換は、当時の人々自身には、ほとんど自覚されなかったのかもしれません。
Ⅲ Deus ex Machina から Machina ex Deus へ
古典劇には、Deus ex Machina(機械仕掛けの神) という装置があります。行き詰まった物語に、神が突然介入して解決する仕掛けです。
近代は、これを逆転させました。表向きには、神が世界を設計したと語りながら、実際には、人間が神を設計仕様に変換したのではなかったでしょうか。
ここに成立したのが、Machina ex Deus、すなわち「神仕掛けの機械」という逆転構造です。神は、崇拝対象から、理論資源へ、設計原理へ、動力源へと変換されていきました。
神は消えたのではありません。装置化されたのです。
INTERMEZZO
ここで、一つの整理を試みます。
天才たちの十七世紀における世界合理化プロジェクトは、意図されざる帰結を生みました。それは、サイエンスという名の「神不在の神学」だったのではないでしょうか。あるいは、「神不要の神学」とまで言うと、さすがに皮肉に過ぎるでしょうか。
Ⅳ 理性の名を借りた人間中心主義
この過程の背後には、人文主義以来の大きな潮流があります。「神の主権」から「人間の主権」へという潮流です。
それは、人間は、人間の主人である、という信念です。自然を理解することは、自然を支配することであり、自然を支配することは、人間が自己の主権を確立することでもありました。
科学は、神学の仮面をかぶった人間主権宣言でもあった、と言えるのではないでしょうか。この点を過小評価すべきではありません。
Ⅴ アインシュタインの違和感
20世紀においても、この構造は生き続けていました。
アインシュタインの有名な言葉、
「神はサイコロを振らない」
は、単なる比喩ではありません。それは、世界は必ず理性に従うべきである、という一種の信仰告白でした。量子論が突きつけた不確定性は、物理理論の問題である以上に、理性中心的な神観そのものへの挑戦だったのかもしれません。アインシュタインは、それを完全には受け入れられませんでした。彼は、あまりにも誠実な近代人だったと言えるでしょう。
Ⅵ 慇懃な異端者たち
この構造に違和感を抱いた思想家たちも、歴史上、確かに存在しました。
パスカル、ニーチェ、シモーヌ・ヴェイユなどは、その代表例でしょう。彼らは共通して、理性を尊敬し、宗教を真剣に受け止め、その両方を裏切った思想家でした。彼らは、声高に罵倒することはありませんでした。むしろ、過剰なほど丁寧に問い詰めました。
それゆえにこそ、彼らの思想は危険だったのだと思われます。
Ⅶ 法則という魔法の杖
もし、「法則とは無知の代用品である」とするならば、科学法則とは、本来、人間の有限性を補う補助具にすぎません。それは、世界を完全に把握できない存在が、暫定的に用いる思考の支えでした。
神にとっては不要であり、人間にとってのみ必要な道具です。その意味で、法則は、もともとは「松葉杖」に近い性格をもっていたと言えるでしょう。
ところが、この補助具は、やがて別の姿をとるようになります。法則は、次第に、
これさえあれば世界は理解できる、
これさえあれば未来は予測できる、
これさえあれば管理できる、
という万能性の象徴へと変質していきました。ここで法則は、「松葉杖」から「魔法の杖」へと変貌したのです。
魔法の杖とは、本来、使い手の力量と節度によって制御されるべき道具です。しかし、ひとたびそれが万能の象徴として信仰されるとき、立場は逆転します。人間が杖を使うのではなく、杖が人間を使うようになるのです。
法則は、補助具であることを忘れられ、目的そのものとして崇拝されるようになります。そして、その結果、人間は、自らの有限性を忘却してしまいました。制御できるはずだったものが制御不能となり、説明のための道具が支配の装置へと変わり、理解の手段が自己目的化していきます。それは、まさに「魔法使いの弟子」が引き起こした暴走に似ています。
一度起動された装置は、もはや誰にも止められず、ただ自己増殖的に作動し続ける。
Machina ex Deus とは、このような暴走を内包した忘却の体系化である、と言えるのではないでしょうか。人間は、自らの弱さを補うために作った杖によって、いつの間にか支配される存在になってしまったのです。
Ⅷ 愛と憎悪の臨界点
私は、近代を否定したいわけではありません。私たちは皆、その恩恵の中で生きています。
しかし同時に、近代は、世界を単純化し、不可測性を排除し、不確実性を病理化し、管理可能性を至上価値とした文明でもありました。
それを愛し、同時に恐れる。この両義性を引き受けない批判は、単なるポーズに終わるでしょう。
Ⅸ 結語 神はどこへ行ったのか
神は死んだのではありません。神は、方程式に、モデルに、アルゴリズムに、制度に分解されて、生き続けています。
それが Machina ex Deus です。
近代とは、神を使って、人間を神にする試みだったのかもしれません。それは偉大であり、同時に危険でもあり、そして今なお未完のプロジェクトです。
私たちは、その装置の内部で生きています。だからこそ、その構造を、礼儀正しく、しかし遠慮無しに声に出してみる必要があるのではないでしょうか。アンデルセンの童話中の少年の、あの凍りつく無邪気さで。「王様は裸だ」と。





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