丸山真男(Maruyama, Masao)

2024年5月13日 (月)

書評:関 良基『江戸の憲法構想 日本近代史の〝イフ〟』作品社 2024年3月

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関 良基『江戸の憲法構想 日本近代史の〝イフ〟』作品社 2024年3月

本書は、関 良基氏の手になる、「明治維新」を再考する三作目の著書です。
1)『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ―テロに葬られた立憲主義の夢』2016年12月
2)『日本を開国させた男、松平忠固 ―近代日本の礎を築いた老中』2020年7月
これで、関 良基氏の「幕末維新」三部作(すべて作品社刊行)が世に問われたと言ってもよいでしょう。

本書を論ずる枕には、一つの推薦文を置くことが適切であろうと思います。江戸文学/比較文化研究者である田中優子氏(前法政大学総長)のものです。

「日本を、江戸時代からやり直したくなる。いや、やり直さなければならない。
強くそう思わせる、驚くべき著書だ。現代日本を見ていて「何かおかしい」と感じ続けている。近代と戦後日本は、もっと別の可能性があったはずだ。なぜ日本の近代は天皇制となり、その結果、あのような戦争に突入して行ったのか?戦後になったというのに、なぜ藩閥政治のような考え方が今でも世襲的に繰り返されているのだろう?
なぜマルクス主義者たちは国粋主義者と一緒になって江戸時代を否定したがるのか?
これらは明治維新のもたらしたものではないのか? 本書は、それらの謎を解く、新たな入り口を開けてくれた。発想の転換だけではなく、価値観の転換を迫られる。」


1.【本書目次】

はじめに――“江戸の憲法構想”と“もう一つの近代日本”を求めて
第Ⅰ部 徳川の近代国家構想――もう一つの日本近代史の可能性
 第1章 よみがえる徳川近代史観――尾佐竹猛と大久保利謙
 第2章 慶応年間の憲法構想――ジョセフ・ヒコ、赤松小三郎、津田真道、松平乗謨、 西周、山本覚馬
 第3章 サトウとグラバーが王政復古をもたらした

第Ⅱ部 徹底批判〈明治維新〉史観――バタフライ史観で読み解く
 第4章 〈皇国史観〉〈講座派史観〉〈司馬史観〉の愛憎劇
 第5章 唯物史観からバタフライ史観へ
 第6章 丸山眞男は右派史観復活の後押しをした
 終章 福沢諭吉から渋沢栄一へ

あとがき 〝近代日本の記憶のあり方〟と〝未来の歴史〟を変えるために
注/人名索引


2.【紹介】
本書の一貫した主題は、あり得たはずの“もう一つの近代史”の説得的提示です。

第1部では、既に〝江戸時代〟には、近代主権国家の必須要件である「憲法」が、自生的かつ幾つも構想されていた事実、およびその「証拠」を列挙します。

まず、戦前においても、日本のもう一つの〝近代〟の可能性を論じた二人の史家、尾佐竹猛と大久保利謙を取り上げ、それに導かれる形で、より詳細かつ具体的に、6名の憲法構想者とその憲法案を取り上げて比較検討します。

第Ⅱ部では、「証拠」があるにもかかわらず、明治以降の歴史学が、それらの歴史的証拠(evidence)をなぜ軽視したり、無視できたのか、その理由を考察します。

具体的に俎上に上るのは、戦前の文部省編『維新史』、司馬遼太郎、井上清、遠山茂樹、丸山眞男、等の議論です。それらの比較検討の結果、〈皇国史観〉〈講座派史観〉〈司馬史観〉および丸山眞男の維新史観、これらの評価軸がみな共通して、長州/薩摩連合による「武力倒幕」を肯定しており、その意味で、これらは、本質的に共通性がある、としています。私流に言い換えれば、〈同じ穴の狢ムジナ〉となりましょうか。

そして、Ⅰ部とⅡ部の接続部、つまり、第Ⅰ部のおわりに、第3章「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」を挟みます。これによって、「江戸」から「明治」にかけて、歴史が「進歩」ではなく「退歩」してしまった歴史の”捻じれ”、の実例とします。著者関
良基氏はこれを、

「覇権国の軍事支援があれば、前近代は近代に勝利し得る。明治維新とはそういうことなのだ。」第4章「〈皇国史観〉〈講座派史観〉〈司馬史観〉の愛憎劇」、本書、p.149

と簡潔に(冷徹に?)表現しています。著者にこのような歴史観の洞察を可能にしたものが、第5章で論じられる複雑系科学に基づく「バタフライ史観」です。

本書で展開されてきた議論を総括するのが、終章「福沢諭吉から渋沢栄一へ」です。著者は、これまでの歴史学において、何故、渋沢栄一が過小評価され、福沢諭吉が過大評価されてきたのか、その由来を尋ねます。

ダウンロード - 福沢諭吉vs.渋沢栄一

上記の比較考察から、著者はこう述べています。

「渋沢は、数多くの会社経営のかたわらで、・・・、(孤児院、日本赤十字社など)、多くの社会福祉事業に関与し続けた。 丸山眞男は、自己責任論を主張した福沢の方が、弱者救済を主張する渋沢よりも近代的だと考えるのであろうか?」本書p.223

「江戸の寺子屋教育の申し子と言ってよい渋沢が、製造業・金融業・運送業・食品業と多方面にわたってベンチャー企業の創業活動を行なって、日本資本主義の父となった。渋沢の存在そのものが、江戸の寺子屋の人材育成に優れた面があったことを示す好例であろう。」本書p.225

そして、下記の一文でもって、終章を結びます。

「渋沢栄一が新一万円札の肖像になるのを契機として、私たちは江戸文明が内発的に生み出すはずであった〝もう一つの近代日本〟の姿を再検討し、それを再興する形で未来社会を構想すべきではないだろうか。」本書、p.227

3.【評価①】
本書は、著者の前二著とくらべて、際立って優れた工夫があります。それは、第1章から第6章まで全てに、「はじめに」および「おわりに」が設けられていることです。

「はじめに」は、その章で解明したいテーマを、「問い」として掲げています。「おわりに」は、先ほどの「問い」に応じ、その章の議論で明らかにされた著者の「答え」を簡潔に提示しています。

これは、日本のアカデミック、かつ非自然科学分野では、珍しい(初の?)論述の構成ではないでしょうか。とりわけ、歴史学関連では珍しく、かつ読者の理解を助ける優れた論述スタイルだと思われます。こういう地味ですが、優れた試みが広がると良いのですが。

前著(松平忠固論)から継続して、本書全体の内容構成のバランスが良いです。第3章を中間に挟んで前後半がほぼ均等におかれています。これも、見やすい後注、人名索引とともに、読者の理解を支援する工夫で、本書全体に著者の神経が行き届いている証拠だと思います。今回、前二作のハードカバーから、軽装版のぺーバーカバーになりました。コストの面もあるでしょうが、持ち運びの点から、個人的は好印象です。軽装版の学術書が増えることは大歓迎でなので。

4.【評価②】

本書には前二作と比較して、少し異色な点が二つあります。「憲法」を前面に押し出したことと、複雑系科学由来の歴史理論「バタフライ史観」を挿入した点です。

著者は、「あとがき」にて本書執筆の動機として、既存の《史観》の検証の必要性を語っています。従いまして、先の二点はそのための基礎作業と言えます。

ただ、著者の前二著を熱烈に支持した読者たちは、「歴史」そのものへの関心、あるいは新しいリアルな「幕末維新史」の切り口を待望していたでしょうから、過去の二著に較べると本書が若干理論的になり話題性はその分下がるかも知れません。

その点を考慮すると、本書での衝撃度の高さから言えば、第3章「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」が、衝撃度、話題性がともに高く、次に終章「福沢諭吉から渋沢栄一へ」が、説得性が最も高い、を言えそうです。

一人でも多くの読者に本書(を含めた三部作)が届いて欲しいと念ずる批評子からしますと、本書の内容・論述は充実しているので、本書のタイトルと内容の構成を、この二つの章をもう少しアピールするようにできていれば、より訴求力が高まり、読者の範囲をさらに広げることができるのではないか、という望蜀の感無きにしも非ず、というのが正直なところです。

5.【議論①】

前項でも指摘しましたが、本書第3章「サトウとグラバーが王政復古をもたらした」は、ここまで明確に特定して記述できるとは思いませんでした。もちろん、列挙されたのは状況証拠ではありますが、これだけ揃えば、直接証拠でなくとも、十分説得性があると思います。過去の史家たちの議論では、読者に推測させるか、匂わす程度でしかありませんでしたし、思い切って論断する威勢の良い議論は、大抵は憶測の域を出ていませんでした。

今回、ここまで言い切れたのは、著者が赤松小三郎という、オモテの「幕末維新史」から消されていた、重大な思想家、かつ非常に重要な軍事技術者、すなわちミッシング・リンクの再発見/再評価をなしたことが大きな力となっていると思います。とりわけ、島津家の軍事指導者西郷吉之介の心変わりを軍事技術者赤松小三郎の動向と結びつけられたことで、全ての点が線に結びついたのであろう、と考えられます。赤松が線上に登場したことで、アーネスト・サトウとのリンケージも結べたのは驚きました。多分、これが歴史の真実(の重要な一部)なのでしょう。

それにしても、名のみしか知らなかったサトウの『英国策論』が、これほど内政干渉の震源だったという事実に無知だったのは、書評子自身、不明の至りで、本当に恥ずかしい限りです。改めて、英国という国家の影の部分(悪辣さ)には、腹の虫がおさまりません。「バルフォア宣言」に淵源する、現在進行形の、パレスチナでの虐殺を思うと余計です。

※サトウ「英国策論」は、『日本近代思想大系1 開国』1991年岩波書店所収

この件に関連して1点だけ。

よく言われることに、幕末期、英国政府は交渉相手として、無能、非合理な「大君政府」を見限り、薩長連合に肩入れした云々といった評言を読んだり、聴いたりします。しかし、昨今の19世紀の「公儀」権力研究、例えば、

眞壁仁『徳川後期の学問と政治―昌平坂学問所儒者と幕末外交変容』2007年名古屋大学出版会(古賀とう庵は学問所の中心儒者)
前田勉「古賀とう庵の海防論―朱子学が担う開明性」『兵学と朱子学・蘭学・国学』2006年平凡社所収
前田勉「女性解放のための朱子学―古賀とう庵の思想2」同上

などによれば、最新の海外情報を入手した開明的な昌平坂学問所儒者たちが「公儀」政治・外交にかなり関与しており、その膝下から弟子たちが、海防担当の有能な官僚として活躍していたことが明らかになっています。

それからしますと、英国政府は、無能・非合理故に「大君政府」から薩長連合に乗り換えたというより、「大君政府」外交部がタフ・ネゴシエーターであったために、より与し易い薩長連合に乗り換えた、とみるほうが合理的なのではないか、と思います。つまり、常識と真逆だったのではないか、ということです。


6.【議論②】
・「バタフライ史観」に関して
何事にも、「日のもとに新しきものなし」と言われます。弊ブログでも、先人の言葉を幾つか引いています。

引用ⅰ 奇妙なことに、意図されずにしかし実際に実現しているような影響と比較して、意図されてはいたが実現されなかったような社会的決断の影響の方が研究を必要としている。というのは、前者は少なくともそこにあるのに対して、意図されたが実現しなかった結果はしばしば過ぎ去るある時点において社会の行為者たちが表明した期待の中だけに見出されるからである。
アルバート・O・ハーシュマン『情念の政治経済学』法政大学出版局(1985) 、p.132

引用ⅱ われわれは初発の出来事を決して繰り返すことはできない。この出来事は自分が何をしているのか分かっていない人々によって行われたのであって、この無自覚性こそが出来事の紛れもない本質であった。
アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』岩波書店(2000年)、第3章産業社会、p.32

以上も、歴史の複線的可能性を示唆しているとみられます。大きくカテゴライズすれば、みな「複雑系」的な発想法であるでしょう。従いまして、これらの史観を、どう命名するか。もう少し検討の余地があるかなと思います。
※下記弊ブログ記事もご参照頂ければ幸甚です。
引用ⅰは、下記参照。
過去の擬似決定性と未来の選択可能性/ Pseudo-determinism of the past and the possibility of choosing the future: 本に溺れたい
引用ⅱは、下記参照。
歴史における発生と定着、あるいはモデルと模倣: 本に溺れたい

7.【議論③】
・世代について
本書で論じられているように、明治維新を肯定する司馬遼太郎や丸山眞男たちが、そう信じたい動機は、彼らが大正時代に青少年期を過ごしたことと関連するかもしれません。つまり、彼らにとり、大正時代がピークとなり、昭和においてどん底まで突き落とされた訳です。

各時代を、「進歩史観」で序列化するとこうなりますでしょうか。

《大正=近代》 → 《明治=半近代》 → 《明治維新=近代化革命》 → 《江戸時代(徳川日本)=前近代》

しかし、それは大きな勘違いでした。

象徴的なことの一例を示します。

21世紀の現代でも、新聞の投稿欄があり、俳句欄、短歌欄がありますね。戦前から存在し、無論、明治からありました。しかしながら、戦前のある時期に廃止された投稿欄がありました。それは、「漢詩」欄です。昨今では、高校国語でもあまり漢文を選択授業に設定しなくなったかもしれませんが、例の李白や杜甫が作った詩のことです。これは古典語(漢語)による詩作、という極めて高度な創造活動です。分かりやすく言えば、現代ヨーロッパの民衆が、ラテン語で詩作することに匹敵します。この漢詩形式による詩作は徳川日本でピークに達しましたが、明治になってもしばらくは、一般購読者による漢詩の投稿は盛んでした。ところが、明治がすすむにつれて、投稿数が減少し続け、漢詩の投稿欄は大正六(1917)年に消えたのです。
※参照 石川忠久/陳舜臣ほか『「漢詩」の心―自然を謳い人生を詠む』1995年プレジデント社、p.6

つまり、江戸文明(徳川文明)は、大正時代に消失した訳です。最後の徳川将軍、慶喜が没したのは、大正2(1913)年11月22日、享年76歳でした。

※人口学的な世代論については、詳細は下記の弊ブログ記事をご参照下さい。
徳川文明の消尽の後に(改訂版)/After the exhaustion of Tokugawa civilization (revised): 本に溺れたい


最後に、本書の丸山眞男論に触れたかったのですが、弊記事が長くなり過ぎたことと、他論者の丸山眞男論も含めて、別途論じさせて頂くこととします。

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2022年6月 6日 (月)

Masao Maruyama, "Carl Schmitt (Schmitt-Dorotic) (1888-1985)," 1954

First published in: "Encyclopedia of Political Science" edited by Tetsu Nakamura, Masao Maruyama, and Kiyoaki Tsuji, 1954, Heibonsha, under the title "Schmidt".
Source: Maruyama Masao shu, Vol. 6, 1995, Iwanami Shoten, pp. 89-91

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丸山真男「シュミット Carl Schmitt (Schmitt-Dorotic)(1888-1985)」、1954年

初出:中村哲・丸山眞男・辻清明 編集『政治学事典』1954年、平凡社、執筆項目「シュミット」
出典:『丸山眞男集 第六巻』1995年、岩波書店、pp.89-91

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2022年6月 5日 (日)

丸山真男,现代自由主义理论,1948年

首次发表于:《思想的话语》,思想,1948年9月,岩波书店。
资料来源:丸山真男,《战争与战后的岁月之间1936-1957》,1976年,三铃书房,《现代自由主义理论》第363-6页。
出典:丸山真男『戦中と戦後の間 1936―1957』1976年、みすず書房、pp.363-6

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Masao Maruyama, "Modern Liberalism," 1948

First published in: Words of Thought, Shiso, September 1948, Iwanami Shoten
Source: Masao Maruyama, Between the War and the Postwar Period 1936-1957, 1976, Misuzu Shobo, pp. 363-6

初出:思想の言葉、『思想』昭和23年9月号、岩波書店
出典:丸山真男『戦中と戦後の間 1936―1957』1976年、みすず書房、pp.363-6

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丸山真男「現代自由主義論」1948年

初出:思想の言葉、『思想』昭和23年9月号、岩波書店
出典:丸山真男『戦中と戦後の間 1936―1957』1976年、みすず書房、pp.363-6

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2022年5月26日 (木)

"Faith in Theory" versus "Faith in Reality"( Masao Maruyama )

The following is an English translation of pp. 52-62 of Masao Maruyama, Nihon no shiso (The Idea of Japan), 1961, Tokyo, Iwanami Shoten.

The reason for this partial translation is that the subject matter raised in the book is a prominent one that has been frequently referred to in Japanese discourse from the late 1960s to the late 1980s. However, I do not believe that there is only an intellectual-historical problem in the specific historical context of postwar Japan. The rise of Marxism after World War II was a worldwide phenomenon. It is hard to imagine now, but Marxism was the leading intellectual item in the intellectual salons in the West at that time. I might add that in my personal assessment of this discussion, I feel there is a possibility of invoking a more universal set of issues apart from those, but I will post that as a separate article when I am ready.
Masao Maruyama, Nihon no shiso (The Idea of Japan), 1961, Tokyo, Iwanami Shoten

Masao Maruyama, The Idea of Japan, 1961, Tokyo, Iwanami Shoten
Table of Contents
Chapter 1: The Idea of Japan (pp.1-66)
Preface: Lack of Ideological Coordinates in Japan, etc.
1. The Premature Appearance of Ideological Exposure, etc.
2. The Unlimited Responsibility of Subjects in "Kokutai", etc.
3. The System of Irresponsibility in the Emperor System, etc.
4. [English translation below of this article: Blogger's Note].
 Conclusion
Chapter 2: Thought and Literature in Modern Japan: A Case Study (pp.67-122)
Preface: Politics-Science-Literature, etc.
1. How to Formulate the Problem of Literature and Politics at the End of the Meiji Era, etc.
2. Political and Scientific Totalism in Proletarian Literary Theory, etc.
3. The Search for "Autonomy" in Each Cultural Domain, etc.
Conclusion
Chapter 3: On the State of Ideas (pp.123-152)
Humans rely on images to make judgments
New reality created by images
The emergence of cloak-and-dagger language in organizations and the precipitation of prejudice
The flood of victim consciousness, etc.
Chapter 4 "Being" and "Doing" (pp.153-180)
Those who "sleep on their rights"
"Being" society and "being" morality
The Social Rise of "Doing" Organizations
The perversion of the value of "doing" and the value of "being," etc.
Afterword

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2022年5月22日 (日)

丸山真男の「理論信仰」対「実感信仰」

 丸山真男の非常に有名な(かつては?)、「理論信仰」対「実感信仰」、という議論ですが、これ、出典を読まれたことがない方(多分、若い方)も結構いるのではないでしょうか。出身学部が文系で、現在60歳代以上の方なら、大学生協書籍部に必ず平積みされていたので、立ち読みくらい一度はされていたはずの、下記の書が出典です。
丸山真男『日本の思想』1961年岩波新書

 自治体の図書館なら、必ず蔵書されているでしょうが、買うのは勿論、図書館から借り出すのも、ちょっと億劫という方のために、本書の該当頁(10頁分)をテキスト化し、本ブログにupしておくこととしました。利用して頂ければ嬉しいです。
  (註)この議論に関する、現在のブログ主の雑感は、(2)で書くつもりです。他に書きたい書評もあるので、こちらはその後になりそうです。

丸山真男『日本の思想』1961年、東京、岩波書店
目次
第1章 日本の思想(pp.1-66)
まえがき 日本における思想的座標軸の欠如、ほか
1.イデオロギー暴露の早熟的登場、ほか
2.「国体」における臣民の無限責任、ほか
3.天皇制における無責任の体系、ほか
4.〔本記事の以下にテキスト化:ブログ主・註
おわりに
第2章 近代日本の思想と文学―一つのケース・スタディとして(pp.67-122)
まえがき 政治‐科学‐文学、ほか
1.明治末年における文学と政治という問題の立てかた、ほか
2.プロレタリア文学理論における政治的および科学的なトータリズム、ほか
3.各文化領域における「自律性」の模索、ほか
おわりに
第3章 思想のあり方について(pp.123-152)
人間はイメージを頼りにして物事を判断する
イメージが作り出す新しい現実
組織における隠語の発生と偏見の沈殿
被害者意識の氾濫、ほか
第4章「である」ことと「する」こと(pp.153-180)
「権利の上にねむる者」
「である」社会と「である」道徳
「する」組織の社会的台頭
「する」価値と「である」価値との倒錯、ほか
あとがき

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2021年3月14日 (日)

藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』1985年中公新書〔承前〕

 本書のamazonレビューを書きました。弊ブログの元記事の簡略版ですが、念のため、弊ブログの別記事として残しておくことに致します。

「勝鱗太郎/福澤諭吉、とは何者か」

 本書が信頼に値するものであれば、勝鱗太郎とは「a great history-monger(歴史の捏造者)」であり、福澤諭吉は「Embezzler in the course of official duties(公務中の業務上横領者」に過ぎません。
 私は、本著者の知的誠実性をどうしても疑うことができません。そして、本書が刊行されてから早、40年近く過ぎようとしています。この間、勝鱗太郎研究者や福澤諭吉研究者、またそれぞれの信奉者たちから、実証的で、徹底した反駁が出ている様子がなさそうです。これでは残念ながら、その方々も本書の言い分を認めたことになってしまいます。このレビューを読まれてギョッとされた方(or 怒髪天を衝く方)は、下記の当該頁をお読みください。賛否いずれにせよ、読まれること(願わくば復刊されること)を衷心から願います。
「勝海舟の虚像と実像」〔本書、pp.186-192〕
「お荷物随員・福沢諭吉」〔本書、pp.117-120〕

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2021年1月22日 (金)

私の知的リソース・ダイアグラム/ My intellectual resource diagram

 下記記事は、四年前の元旦に書いたものです。読み直したら、標題と内容が食い違っていると気づきましたので、改題して新記事とすることにしました。埋め草記事とご容赦頂ければ、幸甚。

*************************************************
弊ブログも悦ばしい(?)ことに12年目を迎えた。

 私は幼少の頃からあまり物事を記憶していられなかった。今思えば自分の興味を引くものだけが長期記憶に残り、その他は削除されたらしかった。したがって、目覚ましい学業成果を残したことは自慢ではないが(全く自慢にならないが)皆無ということになる。

 人は、メモ(備忘録)というものをする、ということを知ったのは、大学に入り、梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)を読んだ時だ。亡父あたりが私にその辺のことをビジネススキルの応用で伝授してくれていれば学業も目覚ましく(?)改善されていただろうに、と今は思う。我が子が忘却体質だ、などということは、十数年も観察していればわかりそうなものだからだ。如何せん亡父も子供のことより己のことに関心がある人間だったので、その方面に(我が子の教育に)己の知的リソースを使うことなど考えが及ぶ訳がなかった。

 亡父が天界から如上の箇所を読んでいるとまずいので急いで弁明しておくが、これは故人への文句ではない。他人(ひと)のことなど眼中になく、最大の関心は己、というのは、恥ずかしながら弊ブログ主も同病だ。したがって、ああ、蛙の子は蛙、という嘆息に過ぎない。

 本記事を読まれている諸氏が人の親であるならば、後々、もし子が父親に感謝するとすれば(母親ではない)、こういう、ちょっとしたことではあるが、その子供本人にとって大きな意味を持つ、具体的で、父親の仕事 business の経験から抽出し洗練された知的スキルをコーチすることだと思っておいた方がよい。父親的な愛情はこういうことを通じても伝わるものだ。直裁に申し上げて、この方面は母親の任ではない。仕方のないことである。

 道具としての知的スキルに関する限り、学校も塾・予備校もあまりあてにならない。こういうちょっとしたことが知的活動の生産性を劇的に向上させるものだ、という注意 attention は、残念ながら、現在でも教育業界や大学の場であまり共有されていない。だから businessの現場の荒波を越えてきている父親こそが適任だろう。教育関連の、大学も含めた「業界」には、善かれ悪しかれ business の感覚が希薄なのだ。これは、千年に及ぶ儒家思想(というか経学※1)の伝統が背景にあるので致し方ない面もあるが、夏目先生の叱責を受けるとしても、21世紀の今、もう少し改善の余地があるやに思う。

※1 「大学」、「小学」、という名辞は朱子学の伝統(それぞれ朱子学のテキスト名)のなかから、明治期に選択され利用された歴史的リソースである(「御一新」による日本の朱子学化)。
※参照 → 徳川元禄期の「小学校」: 本に溺れたい

閑話休題。

 結局、弊ブログも、頭の悪い私にとり、このメモがわりということになる。

 だから、ほとんど何の脈絡もなく、記事が並ぶことになる。アイデアはいくらでも湧き出すが、一日、二日経過すると本当に完全に忘却している。忘れていること自体忘れていれば、精神衛生上問題は残らないのだが、意外に、「ああ、すげぇいいアイデア、画期的アイデアを確か思いついたはずなのに・・・。」というアイデアの感触だけが脳裏に残ったりするので、始末に悪い。その真価が如何ほどのものかは、問いようがない。先述したように、私は根本的に自己中心的な人間で、恐らく亡父と同じで、己はすごい人間、(少なくとも)知的には人類史に貢献できる人間と(秘かに?)自覚している人間なので(笑)、過去の自分の貴重なアイデアが虚空に消失してしまうことが耐えられない(大笑)訳である。

 元旦ということで愚かなことを書いた。

 上記のように、私は結構、いい加減、テキトーな奴なのである。不逞の輩なのだ。したがって、やむを得ず、私にも、体質として、知的に馬が合う人物と、知的に畏敬する人物の二つのカテゴリーができてしまう。

 簡単にいえば、to be 指向の人間と、ought to be 指向の人間である。好が前者、敬が後者である。

 私にとっての知的恩人は、私の書庫にある本の著者たちだ。その中で、思いつくままにカテゴリー分けすると、

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となる。ちなみに、順番は、私が彼らの著作に出合った順だ。

 梅棹忠夫は、「(知的に)面白ければいいじゃない?」、という立場だし、渡辺慧は「使えるものは何でも使ってみる」、ポアンカレなぞ「真理だから役に立つのではない、役に立つから(当面)真理に近いと考えてもよいのだ」といった感じで、こういうメンタリティは私に居心地がよい。

 今年の抱負など持たず、出たとこ勝負でできることをやっていくしかないというのが、年頭の所感じみたものとなる。
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以上、2017年1月1日(日)記、旧題「12年目のつぶやき」を転載

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