尊厳ある「死」、あるいは無責任な「生」/ A dignified ‘death’, or an irresponsible ‘life’
Quora に表題テーマで、現役医師から一つの提言が投稿されていました。とても切実で、優れたものだと思います。私は一種の感銘を受けました。弊ブログにも転載させて頂き、考えるヒントとして皆様と共有したいと願います。引用元サイトには、良いコメントも付せられています。ぜひ上記リンクでたどってみて頂ければと思います。
「現役医師です。
姥捨山制度が違憲かどうかは明白ですが、この問題に潜む若者の閉塞感は、危機的状況にあると思います。
かつて、日本を欧米諸国の植民地支配から死守しようと奮迅してくださった世代、戦後の復興を支えた世代が、80年経過して終焉を迎えようとしています。我々の責務は、この世代の方々に敬意をもって、誇り高い最期を迎えるための御手伝いをさせて頂くことであると考えます。
しかし、戦後、古来から持っていた日本人の死生観の崩壊により、医療現場では死を受け入れる土壌がなくなり、医療者も含めて、だれもかれもが、無責任な生への執着という病に罹患しています。心の底では、多くの方が、安らかな最期を希望されているにも関わらずです。
自分が自分であることも認識できず、治療の意義も理解できない状況にあるご老人に対しても、体力はあるからという理由で、抗癌治療介入を行ったり、重度の認知機能障害を伴い、食事や排泄も自身で困難な症例に対する延命的な点滴管理や投薬(高血圧薬や高脂血症薬、胃腸薬など含む)など、誰が望むのでしょうか?少なくとも私はご免こうむりたいと思いますが、その状況になった場合、本人には拒否権がないのです。つまり、身近な家族による死の受け入れが必要なのです。
質問者の意図とは違いますが、姥捨て山とは、少しの介助で楽しく人生の最終局面を楽しく過ごせる老人に対して福祉サービスを提供することを停止するという意味ではなく、もはや生物として終焉を迎えた状況にある老人に対して、尊厳ある最期を迎えることを家族や社会が容認することであると思ってらっしゃるのではと考えます。
最期の迎え方は、家族のつながりや、これまでの経緯によって、ベストが千差万別であり、社会システムや保険収載の方法で画一的に決めてしまうことが極めて危険な領域であるため(例えば、90歳を過ぎたので、癌治療はすべて自費など)、医師と家族の間の話あいでの死の受け入れに対する妥当なラインを、今一度考えなおす風土づくりが必要だと思います。
80歳、90歳になって、ほんの数カ月から数週間しか長生きに貢献しない抗癌剤や高額な治療に、年間1000万円以上使用するくらいなら、その3分の1の費用でもいいから、家族みんなで集まって、”おじいちゃん、おばあちゃん今までありがとうな”という感謝の思いを伝えるパーティー費用に使ってもらいたいです。動けるうちに、福祉サービスをフルに使って、楽しくくらす。動けなくなって(転倒して骨折でうごけないなども含む)、自分で食事ができなくなったら、弱って死ぬ。これだけで、日本の医療サービスは今後30年は世界最高レベルを担保したまま、充分に存続できると考えます。
皆様、今一度、ご自身と親御様と、死について話あってみてください。」
一読して、私は、現代日本人の、「生」と「死」に関する混乱は、O. S. Wauchope の指摘する'living behavior'と 'death-avoiding behavior'の倒錯そのままではないか、という印象を強くしました。


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