Liah Greenfeld の重要性/ The Importance of Liah Greenfeld
Liah Greenfeld の社会科学者としての理論力、あるいは社会科学としての方法論は、概ね正しく、かつかなり有効だと私は考えます。社会科学において、「言葉」は一種の鬼門であり、社会科学にとって「言葉」をどう理論的に処理するかが、「社会の科学」の在り方を決定してしまうからです。
例えば、
『ヒトはいかにしてことばを獲得したか』2011年大修館書店 (認知科学のフロンティア) 、正高信男/辻幸夫共著、
における正高信男の発言に象徴されています。
聾唖の子どもも、健常者の子どもと同様に、寝言を言うことがあります。はて?、口のきけない聾唖の子はいかにして寝言を言うのか? それは真夜中、就寝中に突然「手話」をしだすのです。つまり、人間にとり、言葉は、空間を伝わる波という「音」でも、二次平面に記された「文字」でもない、何ものか、なのです。
あらゆる生きものは、己が活動している環境の中で生き延びるため、整合的な「世界モデル」を構成して生きています。なぜなら、すべての「生きもの」が有する、感覚器官、作用器官は力能的に限定的なため、無限に多様な「世界」から自分に都合の良い情報だけを取捨選択して自己の「環世界」を構成し生きるしか手段が無いからです。それはウィルス、バクテリアから植物、昆虫、動物まで、みな「平等」です。近年では、動物言語学なる学問の進歩で、シジュウカラにも「ことば」があることがわかってきました。しかし、人間は大脳部分が体積比で肥大化し、各器官が退化したためか、「言葉」という象徴的で、自己生産でき、過程(process)で消費してしまう「記号」を主要部品(parts)として、自己の「環世界」を流動的、過程的に常時構成して生きています。そのことが、この Greenfeld と Uexküll の理論的貢献で、私には明確になりました。この厄介さ、は、正直に言って、自然科学における世界の複雑さとは、質を異にして、むしろ人にとってより困難なものだと思います。何故ならそれは自分自身を環境の一部として認識せざるを得ないからです。


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