本書の議論で、私にとり、最も印象的で重要だと考える、理論的な指摘は2つあります。
◆1《社会的事実は象徴作用で出来ていて、したがってspacialな「構造 structure」ではなく、temporalな「過程 process」である》
◆2《言語は思考の媒体であり、経験は言語によってのみ「人間の現実」に組み込まれ「世界 Welt」の一部となる》
リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理
以下、本書の該当箇所を引用致します。
◆1《社会的事実は象徴作用で出来ていて、したがってspacialな「構造 structure」ではなく、temporalな「過程 process」である》
第2章、p.31
社会的事実は物質的事実や有機的事実と同様、外側から私たちに作用するので(心の中で作用する点は異なるが)、やはり物質的事実や有機的事実と同様、私たちの意思には束縛されず、むしろ私たちに強制的な影響力をおよぼす。たとえば私たちが罰せられないためには、状況にふさわしい服装や話し方や身振りが求められ、その慣習を無視することができないのは、行く手をさえぎるテーブルを存在しないものと仮定して通り抜けることも、お腹を空かせたワニがたくさんいる川に飛び込むこともできないのと同じだ。その意味では、社会的事実の経験は必然的に主観的だが、社会的事実そのものは物質的事実や有機的事実と同様に客観的である。さらにその意味では、社会的事実の圧倒的多数は観念とみなされるかもしれないが、純粋に主観的な観念や想像と同じではない。主観的な観念や想像は、自分の心の中で生まれるもので、それが強制的な影響力をおよぼすのは、統合失調症で妄想状態に陥ったときのように精神が深刻な障害を起こし、内側の世界と外側の世界を区別する能力が失われた場合に限られる。
第2章、pp.33-4
人間以外のすべての動物種は、発達段階や進化系統樹で占める位置にかかわらず、基本的に生活様式を遺伝子で伝える。しかし私たち人間は、象徴を介して生活様式を伝えるケースが圧倒的に多い。人間の現実は、象徴的現実にほかならない。そのため、他の動物の社会的プロセスとは異なり、人間の社会的(政治的)プロセスは象徴的プロセスとなる。したがってナショナリズムについて論じる際には、象徴的プロセスに注目しなければならない。象徴とは任意の記号であり、象徴が伝える内容や意味は状況次第で変化する。しかも状況そのものが、必然的にほとんどが象徴的なので、象徴的なプロセスは時間依存的または通時的(historical)に進行する。要するに、人間の現実は精神的、象徴的、通時的な現実なのだ。人間の現実はプロセスであって、物質や物事ではない。なぜなら物質的な現実とは対照的に、本質的な要素(それなくして人間が存在し得ない要素)のすべてが一時的(temporal)である。物質的な現実の場合は、本質的要素のすべてが空間的(spatial)であり、有機的な現実の場合はほとんどの本質的要素が空間的なので、いずれの場合も生命は本質的に具現化されたプロセスになる。これに対して、人間の現実は常に流動的で、決して静止せず、少しでも時間が経過すれば姿を変える。社会科学の議論でしばしば使われる社会的、政治的、経済的構造という概念、あるいは共時的・物理的構造の物理的力と類似する社会構造が由来の構造的な力という概念は、単なるメタファーにすぎず、しかも誤解を招きやすい。たしかに人間のプロセスは建物、車、耕作地、家畜、書籍など物理的・有機的な痕跡を残す。キケロ以来、物理的な環境に人間が加えたこのような要素は文化(culture)と呼ばれてきたが、今日ではこれらの物理的・有機的な痕跡を文化が手放すところまでプロセスが延長されている。結局、物理的な痕跡は象徴としては死んだ状態で、自己再生能力を持ち合わせていない。
物理的・有機的な痕跡を手放す文化的プロセスは、個人の心によって、個人の心のなかでのみ進行する。その意味では、個人は文化において唯一の能動素子である(そのため、人間社会の研究では方法論的個人主義に特権的地位が与えられる)。しかし、心は象徴が長くとどまり意味を変化させる場所である一方、圧倒的に多くのケースにおいて(心も象徴も)、ほかの心の世界で創造した象徴によって動作する。その意味では、心は文化によって創造される。人間特有の現実を研究するためには、生物学とも物理学とも異なる特殊な科学の存在が正当化されるが、この人間特有の現実はあらゆる面において、心の内面的な働きと象徴的な環境のあいだの絶えまないやりとりから成り立っているのだ。集合的レベルの精神的、象徴的、通時的プロセスと呼べる文化と、同じプロセスが個人レベルで進行する心とのあいだで、持ちつ持たれつの関係が成立している。
◆2《言語は思考の媒体であり、経験は言語によってのみ「人間の現実」に組み込まれ「世界 Welt」の一部となる》
第3章、pp.63-4
いかなる動物とも同様に人間は、物理的・有機的な現実を十分に意識することができる。火が燃えているストーブに手で触れば痛みを感じ、寒い日には、毛布のぬくもりに心地よさを感じ、空腹や満腹感、性欲などを経験できる。その一方、象徴的現実(あるいは人間に特有の現実)に関しては、言語がなければ十分に意識することも経験することもできない。実際、該当する言葉のない何かを経験するのは可能だが、この経験は漠然とした感覚にすぎず、他人と共有できないし、意のままに思い出すことさえできず、記憶の中で追体験できない。いつの間にか消え去ってしまう。象徴的経験(人間に特有の文化的環境で生み出された経験)を記憶にとどめるためには、言語が欠かせない。経験を現実に組み込むことができるのは言語だけである。新しい経験が安定した領域を確保するためには、新しい意味領域が人間の存在に追加されることが前提となるが、新しい意味領域は言語によってのみ創造される。したがって、言語が関与しない社会的潮流を想像することはできても、言語がなければ社会的潮流の制度化は不可能である。いかなる社会秩序も新しい語彙を創造するところから始まるのであって、それはナショナリズムも例外ではない。ナショナリズム誕生の地であるイギリスだけでなく、ナショナリズムが導入された世界中の国で、まずは新しい語彙が創造された。
上記のグリーンフェルドの議論を我々が俎上に載せるときに忘れてはならないのは、彼女が、デュルケーム(Émile Durkheim)等の理論を発見的方法(heuristic)として使いながら、史実を通してそれらを帰納的に検証し、構成している点です。この点に私は、魅力と説得力を感じます。彼女の「ナショナリズム三部作 Trilogy of Nationalism」を、
第1作 Liah Greenfeld, Nationalism: Five Roads to Modernity, 1992/12
第2作 Liah Greenfeld, The Spirit of Capitalism: Nationalism and Economic Growth, 2001/11
第3作 Liah Greenfeld, Mind, Modernity, Madness: The Impact of Culture on Human Experience, 2013/4
と概観しても、最後の Liah Greenfeld, Mind, Modernity, Madness, 2013 が全体として最も理論的に先鋭であることが、彼女の歴史社会学が演繹的であるよりむしろ、帰納的であることを側面から証していると思います。
類似した主題、共通する議論をする他の論者と比較する作業は、Greenfeld の議論の特徴を考察するのに有効ですが、恐縮ですがこれは別稿とさせて頂きます。
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※参照
Liah Greenfeld の重要性/ The Importance of Liah Greenfeld: 本に溺れたい(20250110)
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