2つの「わたし」と3つのインターフェース/Two “I’s” and Three Interfaces
homo sapiens (少なくとも現生人類)は、二つの「わたし」として生きています。
一つは「生老病死」を不可避的に刻印される(された)身体としての「わたし」。その身体を「今日は朝から頭が痛い。風邪か?」とか、ふと自分の指先が視界に入り「お、なんか爪が伸びてきたな。今晩風呂上りにでも切ろう。」などと、身体を monitoring しながら呟いている「わたし」。
しかし、その一方で、「わたし」を取り巻く「世界」に晒されて、必死に Avoiding death したり、何かに夢中になり Living Life を謳歌している「わたし」は、二つの「わたし」の区別から注意 attention という資源を「世界」に全振りしているので、「私性」の消えた状態の、統合された一つの「わたし」といえます。
すると、「わたし」とその外部との接合面を interface と呼ぶなら、
1.「身体(=わたし)」を囲む interface
2.「身体を monitoring するわたし」を囲む interface
3.「心身統合された非わたし」が「世界」と直面している interface
この中で、3.は「没入」と呼んでもよいでしょう。
そして、この「没入」という状況は、仏教でいう「無我」に相当しそうです。
参考にできるのが、
「《無我》 仏教を一貫する術語。最初期には、我執 (がしゅう)を中心とする執着を排する語として用いられ、初期経典では、我を「私のもの」「私」「私の自我」の3種に分析して、いっさいのものにこの3種の否定を反復する。
小学館 日本大百科全書 三枝充悳、記述」
でしょうか。カテゴリーミステイクかも知れませんが、
①身体/延長を有するもの=「私のもの」
②monitoring するわたし=「私の自我」
③統合されたわたし=「私」
と、対比できそうな気がします。
2010年、2011年と、ドイツのブンデスリーガで大活躍した footballer である、MF香川真司は、2011年カップ戦のバイエルンミュンヘンとの決勝戦まえインタビューに答えて、
「対戦相手の情報は、スタッフから十分説明され、頭に入れてあります。でも、ゲームに臨んでは、それをすべて忘れて、身体(からだ)が動く通りにやるだけです。」
と言っていました。
多分、注意(attention)が「わたし」に全く割かれず、対戦相手だけに全振りされることは、「無我」「没我」の境地と実質同じことなのでしょう。いわゆる「zone」でしょうか。
そこまでいくと、「世界」の「筋目」、「articulation」、「line」が見えて、それに「素直」に従うことが可能となるのではないか、と思われます。


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