Tokugawa Japan (徳川史)

2026年4月13日 (月)

石川 淳「江戸人の発想法について」昭和18年3月/ Jun Ishikawa, “On the Way of Thinking of the People of Edo,” March 1943

佐久間の下女は箔附のちぢれ髪

裏に來てきけばをとつひ象に乘り

 お竹大日如来のことは民俗学のほうではどうあつかうのか知らない。某寺のはなしとか流しもとの飯粒を大切にするはなしとかがこれに関係づけられているようである。しかし、この風変わりな如来縁起が市民生活の歴史の中でいかなる関係物によって支えられているにしろ、前もって能の江口というものがあたえられていなかったとすれば、すなわち江口に於て作品化された通俗西行噺が先行していなかったとすれば、江戸の佐久間某の下女が大日如来に化けるという趣向は発明されなかったろう。江口の君が白象に乗って普賢菩薩と現じたという伝承は前代から見のこされて来た夢のようなものだが、江戸人はその夢を解いて生活上の現実をもってこれに対応させつつ、そこにまたあらたなる夢を見直すことを知っていた。そして、こういう操作がきわめてすらすらとおこなわれてしまうので、それがかれらの生得の知恵のはたらきであること、同時に生活の秘術であることを、江戸人みずから知らなかった。後世が作為の跡しか受け取らなかったとすれば、当の江戸人はそのとおり駄洒落さと答えてけろりとしているのであろうが、じつは後世がむざむざとかれらの知恵にだまされているようなものである。お竹大日如来の場合には、文学のほうではたまたま川柳の担当になっているので、後世の文芸評論家はなるべくこれをやすっぽく踏み倒すことによって自家の見識を示そうとする。 われわれはその見識の高下を知らない。

 箔附のちぢれ髪という。おもての意味は明かに仏菩薩の螺髪ことをいっている。しかし、箔附のとは、れっきとした、極めつきの、例のあれさ、という意味でもある。すると、ちぢれ髪とはなにか。按ずるに、ちぢれ髪の女は情が濃いという俗説を踏まえているのだろう。ここで「こなたも名におふ色好みの、家にはさしも埋木の、人知れぬことのみ多き宿に」という江口の本文を思い出しておいてよい。江戸の隠語に、来るものを拒まない女のことを、医者の慣用薬にたとえて、枇杷葉湯という。お竹はけだし枇杷葉湯なのだろう。お竹とはかならずしも佐久間家の婢にはかぎるまい。市井の諸家の台所に多くの可憐なるお竹がいて、おそらくはときに町内の若者を済度することを辞さなかったのだろう。すなわち見立江口の君である。おろかな、たわいない、よわい女人はここまで突き落とされたかと見るまに、一転して後シテの出となる。台所は「世をいとふ人とし聞けば假の宿に心とむなと思ふばかりぞ」という仮の宿である。また「惜しむこそ惜しまぬ假の宿」である。すでにして、お竹は「これまでなりや歸るとて」白象に乗った遠い菩薩像であった。その姿の消えた後に、裏に来て安否をとうものは、かならずやかつて済度をこうむった町内の若者の一人なのだろう。憶測をたくましくすれば、この相手方もまた一所不在の浮かれもの、見立西行というこころいきであろうか。

 江口の君をおもかげにしたこのお竹の説話から、何らかの思想を抽象しようするのは愚に似ている。仏説の縁起観がはたらいているといっただけでは説明にもなるまい。けだし、江戸人にあっては、思想を分析する思弁よりも、それを俗化する操作のほうが速かったからである。かれらにとって、象徴が対応しないような思想はなきにひとしかった。かれらがときに無思想に見られがちである所以だろう。げんに、お竹説話に於て、われわれはそこに二重の操作しか見ない。一面は江口こそ歴史上の実在で、お竹こそ生活上の象徴であるような転換の仕掛に係る。また一面は眼をひらけばお竹、眼をとじれば大日如来というような変相の仕掛に係る。いわば、お竹すなわちやつし大日如来である。またお竹説話すなわちやつし仏説縁起観である。そして、この仮定が忽然と生活上に立てられたとき、それは歴史上の現実たる江口説話に依ってとうの昔に証明済というあんばいで、とたんに梃でもうごかない。さっそく筆まめな学者先生がお竹の実話を随筆に書いたり、欲ばりの香具師がお竹の遺物を小屋掛で見せたりする。江戸に於ける俗化ということばは右体の次第から離れたところではたちまち意味をうしなうだろう。またやつしという思想はおなじことばのやつしという操作と不可分であるところにはじめて活機をうるだろう。このやつしという操作を、文学上一般に何と呼ぶべきか。これを俳諧化と呼ぶことの不当ならざるべきことを思う。

 一般に、江戸の市井に継起した文学の方法をつらぬいているものはこの俳諧化という操作である。およそ江戸文学という精神上の仕事は後世のいかなる研究法をも戸惑いさせるような出来ぐあいになっている。なにやら近代ふうの文学論で律儀に割り切ろうとすると、つるりとすべって小バカまわしにされる。研究家が近代だと思いこんでいるものよりも、江戸のほうが近代と呼ぶに当っているからだろう。考証から這いこんでも、好事からまぎれこんでも、八幡の藪知らずでうすぼんやりとする。考証家の博捜よりも、文学の影の逃げるほうが速いからだろう。また好事家の生醉よりも、江戸作者の意識のほうが高いからだろう。この奇怪なる文学の性質をうかがうためには、あらかじめ立てるすべての仮定はどこかではぐらかされることになるかも知れないが、しかもなお方法の変通に関する仮定を立てておくことの便利なる所以を思わざるをえない。しばらく、精神を天井に上げ思想を縁の下に押しこんでおいて、はなはだひとをあざむきやすい操作のほうをみることにする。

 川柳の末技といえども、なお通俗俳諧たる雰囲気のにおいをとどめている。しかし、川柳の場合では、俳諧の要素が低地の塵に散乱してしまったていたらくで、これを文学の網に掬い上げようとしても結縁がうすいだろう。江戸の俳諧といえば、芭蕉の正風とその延長(ちなみに延長とは下落ということを矯飾していう語である)のほかには、俳諧の運動の自在神通についてなにものをも見まいとするのが後世の窮屈な常識らしい。そして、この常識は川柳と併せて漫然と狂歌をも貶しているらしい。衣冠を見てそのひとを見ないようなものだろう。また菽麦を見てその別を知らないようなものだろう。俳諧の転換の奇法はかならずしも江戸の芭蕉から京都の蕪村へという尋常五十三次の路程のみをたどってはいない。別に江戸の市井にこれを承けるものがあって、文学様式上の新発明を以ておこっている。すなわち天明狂歌のことをいう。

 狂歌の何たるかを論ずるのはともかくとして、ここではただ天明狂歌がそれ以前の狂歌ともまたそれ以後の狂歌ともまったく品物がちがうということを記しておくにとどめる。江戸初期に上方におこり江戸に転じた狂歌の歴史のことをいうひとは、おおむねまずその先祖さがしからはじめて、万葉集の戯笑歌、古今集の俳諧歌、有心、無心、柿の本、栗の本の別などとかぞえて来て、それらとの続柄を案じわずらった末に、ぼんやり曉月坊あたりからはなしの糸口を引き出すことになっている。しかし、かりに狂歌の意義と系譜とについて定説のしたがうべきものが立てられたとしてもそれは天明狂歌という文学運動の性質についてなにごとをも語らないだろう。けだし、天明狂歌は江戸初期の上方狂歌江戸狂歌をもふくむ前代の諸派に対し、操作に於て意味を異にしているからである。

 狂歌には本歌取という操作がある。どういうものか、本歌取にはあまり秀作がない。たとえば、これも駄作の例になるが、萬載狂歌集、山手白人、柏餅、なら坂やこの手にもちし柏もちうらおもてよりさすりてぞくふ。こういう操作はなにも天明の発明ではない。げんに、おなじ集に、雄長老、いつはりのある世なりけり神無月貧乏神は身をもはなれぬ。本歌取とはすなわち古歌の俳諧化である。そして、この操作は天明以前にもあった。また狂歌の家集選集を出すこともすでにそれ以前におこなわれていた。しかし、一首の端ではなくて、ある狂歌集そのものが本歌取であるような、いいかえれば古の歌集の俳諧化であるような例がどこにあるか。ことばの繰まわしの末ではなくて、歌調歌格に於て某の古歌集に対応しているような狂歌集がどこにあるか。天明以前には一つもないだろう。天明に至って、萬載狂歌集(選者四方赤良すなわち蜀山)という狂歌選集のあらわれるに当って、われわれは初めてこれを見る。では萬載狂歌集が歌調歌格に於て対応しているところの古歌の選集とはなにか。たしかに、わたしはここで蜀山菅江橘州らの作例をあげて当該古歌選集とは比較論証しなくてはならないはずだが、今その余白がない。やむをえず証明を省略して、性急に結論をいう。それは古今集にほかならない。萬載狂歌集は古今集の俳諧化である。一般に、日本の歌(ただに狂歌にはかぎらず)の歴史の上で、天明狂歌とは古今集の精神の転換的運動である。

 ところで、江戸狂歌の歴史の上で、天明狂歌とは、前代の未得卜養らの狂歌あるいは上方の貞柳行風らの狂歌の、自然の発展とみるべきだろうか。わたしはまた性急にその決して然らざるべきことをいう。ここに、元禄から享保にかけて、はなはだ意味深長な江戸狂歌の空白時代がある。この空白時代の謎は一見解きがたきに似るかも知れない。しかし、天明狂歌の俳諧性の何たるかをさとれば、この謎のたちまち解きやすきを知るだろう。天明以前、江戸には周知のごとく俳諧史上の一大椿事がおこっている。元禄の芭蕉の発明にかかる俳諧の連歌である。(一句立の発句という可憐なる短詩のことは取り上げるには及ばない。)芭蕉詩の運動は堂上派の連歌の俳諧化という操作の上に立ちつつ、おどろくべき斬新清爽な芸術境を打開している。この椿事を前代に承けて、俳諧の運動が天明の新事件を突発させるに至ったのはむしろ必然のことに属するだろう。元禄の俳諧を正とし雅とすれば、天明の狂歌は俳諧の奇にして俗なるものに当たる。芭蕉から蜀山に至る運動の筋道は決して俳諧の下落ではなくて、その俗化である。下落は蕉風の亜流の側にあった。俗化ということばの正当な意味に於て、江戸俳諧の俗化とは、流行が芭蕉の発句から其角の発句に移ったということではなくて、性質が猿蓑から萬載狂歌集に変わったということである。これが俳諧の論理である。

 天明狂歌がそれ以前のいかなる狂歌とも性質を異にしているように、天明狂歌師はそれ以前のすべての狂歌師と作者的人格に於てかならずしもおなじではない。狂歌師はみな狂名をもっている。これは天明でもその前後でも変わりがない。ただ天明に至って狂名の意味の一変しているのを見る。かつて狂歌師の狂名は一般文人の雅号、俳諧師の俳名とおなじく、その名の中に作者が存在していた。すなわち有名人格であった。しかるに天明狂歌師はその狂名の中に不在である。すなわち無名人格である。いいかえれば、読人不知ということにほかならない。かつて芭蕉俳諧の連歌は、世界が出来上ったとき、作者の名を忘れさせた。今、萬載狂歌集は作者の名を抛棄することから世界を築き上げている。狂名がふざけていると、ひっぱたいてみても、作者はそこにいない。この簡単な事実を説明するためには、複雑きわまる天明狂歌師の列伝を本に書かなくてはならないだろう。たとえば、天明狂歌に於ける蜀山の位置は元禄の俳諧に於ける芭蕉のそれに当り、また萬載狂歌集の選者たるかれの位置は古今集の選者たる貫之のそれに当るべきだが、しかも蜀山という存在はみずから現象化するという仕方によって芭蕉貫之という存在を俳諧化しているようなものである。

 明治以降、はるかなる芭蕉俳諧の連歌からわずかに卑近なる一句立の発句を抜き取ることしか知らないような、通俗鑑賞法が世におこなわれているていである。たぶん、人間と仕事しか見ようとしない外国人の文学観伝来のさもしい料簡だろう。証拠を見たうえでなくては神を信じないというものの態度に似ている。この鑑賞法の眼鏡をもって天明の狂文学の場に臨んだとすれば、かならずや満目空白にしてなにものをも見とどけられないだろう。けだし、天明狂歌は仕事ではなくて運動であり、天明狂歌師は人格ではなくて仮託だからである。しかし、後世のみそこないこそ昔日の風狂詩人どもの思う壺にちがいない。かれらをして我事成れりと草葉のかげでほくそえましめることになる。みすみす敵の術中におちいるとは、このことである。

 ここに一挿話がある。文化のはじめごろ、さきに蜀山から判者をゆずられた鹿都部眞顔はおぞましくも狂歌が古今集の俳諧歌からでたものといい立てて、わざわざこれを俳諧歌と改称し、もっぱら姿態をつくり点料をむさぼることをたくらんだ。文政以降狂歌と狂歌師との相場ががったり下落したことの俑を作ったものだろう。作者みずから狂歌のかならずかくあるべきことを規定し、狂名の中におのれの貧弱な全存在を露出するや、たちまち放曠自在の世界は消えうせて、あとにはただやすっぽい人間と劣等な品物だけが居残ることになったとは、天明狂歌の微妙な性質につき消息の一端をつたえている。ひとが俳諧の何たるかをうかがおうとするとき、芭蕉俳諧の連歌という正統の文学系のみを観測するにとどまるよりも、併せて天明狂歌という危険きわまる文学系をも観測したほうがより近似的な値をうるに至るべきことを思う。

 天明狂歌はそれ以前の江戸上方の雑俳を呑んでいるとともに、芭蕉に依って切断された元禄以前の正系俳諧の主たる要素をも食っているかのごとくである。主たる要素とは、俳諧ということばが元来意味するところの滑稽の謂である。しかし、天明の新発明に係る世界、たとえば萬載狂歌集がひとにうったえて来るものはただに滑稽的抒情のみではない。これを展望すれば、そぞろにかなしい。いわば出来上がった世界の外に身を置いているところの、不逞にして遣瀬ない読人不知の風狂詩人らの宿命はかならずしもひとの頤を解くものではなかろう。この世界が俳諧的操作のうえで遠く古今集の精神を踏まえていることは前に述べた。ここに古今集を拉し来った所以は現実の地盤でこれを支持するものの存すべき事情があったのだろう。按ずるに、江戸俗間の古典文学教養にして、その常識に於て市井に流れ、その抒情において人心にひびいていたのは、古今集に如くものがなかったのだろう。当時の江戸人の生活のほうを除外していえば、ここにもまた萬載狂歌集の成立すべき拠りどころがあった。

 江戸俗間の文学教養のことでは、古今集のほかにあげるべきものが一つある。唐詩選である。ただし唐詩そのものへの理解ではなくて、唐詩選という本への昵懇である。そして、この本を日本流の読み方で吟ずるところの情操である。この現実の昵懇と情操とを踏まえつつ、はたせるかな、蜀山銅脈を宗とする狂詩の発明がおこっている。しばらく天明狂歌と並べて天明狂詩と呼んでおく。いま、狂詩の源流を探って、十訓抄、閉口後來客、含陰先達儒あたりを引合に出すにも及ぶまい。もし句意の風狂に似るものを求めるとすれば、たとえば和漢朗詠集、上巻秋、源順の女郎花のごときをもかぞえることができるかも知れない。しかし、天明狂詩の風骨を感得するためには、かならずしも先祖さがしを要さないということ、またそれが文政以後明治初年にわたる狂詩の流行とは、他人の空似ぐらいの続柄しかもたないということは、なおさきに述べた天明狂歌に於ける形勢と相似ている。絮説をはぶく所以である。

 天明狂詩の風骨は唐詩選の諺解、すなわちこれを俳諧化するという操作の中にひそんでいる。一例を示せば、四方山人、五明楼贈雛妓、花扇連襟夜入床、五明送客大門傍、楽遊雛妓如相問、一片執心在玉章、がある。これが、王昌齢、芙蓉楼送辛漸、寒雨連江夜入呉、平明送客楚山孤、洛陽親友如相問、一片冰心在玉壺を踏まえていることは一見して明かだろう。いわば本歌取に対して本詩取とも呼ぶべき操作に属する。しかも、その本詩を踏まえることはただに操作上の関係に於てのみではあるまい。一は唐人別離の情の悲愴なるもの、一は粋人遊里の情の嫋嫋たるもの、詩意たちまち逆転しつつ、相対して奇怪である。当時の江戸人はこれを見て、かならずや操作の妙に感じ、詩意の変におどろき、陽に蜀山詩に笑い陰に昌齢詩に泣いて、思わずひやりとさせられたのだろう。こういう交渉から離れたところでは、天明狂詩の鑑賞法はぐらつくだろう。もし作者が内に士人の気節清操を秘める底の人物でなくてはよく外に戯詠に遊びがたいといったとすれば、言つよくして反って心をうしなうの憾みがあるかも知れない。しかし、姿の見えない作者の影がいつか享受者の心に忍びこんで来ているところに、ひやりとさせられる所以があるのだといえば、まんざらことばの綾ではないかも知れない。狂詩作者でその技巧のあるいは蜀山を凌ぐものはすくなくないだろう。たとえば半可山人の妙は世これを称する。なるほど半可山人の忠臣蔵十一段は斯道の眉目ではあろう。しかし、これははるかに銅脈先生の婢女行の後塵を拝するもので、あまり高く買えない。漫然と出来栄えがうまいまずいという鑑賞法では、おそらく天明の江戸人の心に於ける切実な鑑賞法の原型から相去ること遠くなって行くだろう。狂詩の功は発明をもって論ずる。大和ことばによる狂歌とはちがって、本筋の漢詩を作ることさえどうせ唐人の借物なのだから、仮託の狂詩に至っては、技巧論に深入しては狐に化かされるだろう。

 江戸の俗間に於ける唐詩選の流行について、ここに一証がある。京伝の洒落本繁千話の中に半可通が青楼の名代部屋で待ちぼうけをくわされている条を見る。枕頭に小屏風があって、それになにやら字が書いてある。長信宮中草、年年愁處生、時侵珠履跡、不使玉階行というニ十箇の四角な字である。半可通は鼻をうごめかしてこれをでたらめに訓む。たとえば、転句と結句とを時にナニナニナニノ跡、使ヲ呼バズニ二階へ行クダロウという訓み方である。これまた唐詩選の諺解の一種に類するだろう。ところで、この条は明かに読者の笑を待ちうけている。そのためにはあらかじめ読者側に笑う用意のあるべきことが予想されているはずだろう。すなわち、当時の洒落本の読者はニ十箇の四角な字が崔国輔、長信草の五絶であることを先刻承知でいたのだろう。またかれらはつとに漢成帝と班婕妤との故事をも知っていて、作者が待ちぼうけの半可通に配するに漢宮の婦女閨怨のおもかげをもってしつつ題詩の場面に適切なるものを措いた趣向に、あっと感服したのだろう。もし一般読者側にこれを笑う用意が予想されていなかったとすれば、京伝ほどのわけ知りの作者がわざわざ読者に恥をかかせるような四角な字をもてあそぶはずはあるまい。

 右に、わたしはゆくりなく洒落本のことをいい、また遊里のことをいった。じつはわたしの意中にひそかに考えるところがあって、さらに洒落本から人情本にわたろうとしている。ひそかに考えるところとは、江戸作者の究極の発明たる遊里の観念に関している。お竹大日如来の説話から特製の遊里の観念に至るまでの筋道には、江戸人の発想法の発展があるようにうかがわれる。他日の機会に書く。

花色如蒸粟。俗呼為女郎。聞名戯欲契偕老。恐悪衰翁首似霜。

初出:岩波書店『思想』昭和18年3月

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2026年1月26日 (月)

俳諧における方法的物我一如 / The Unity of Subject and Object in Haikai Methodology

服部土芳(はっとりどほう、松尾芭蕉の高弟)著『三冊子(さんぞうし)』1703作。
出典:新編日本古典文学全集88 連歌論集 能楽論集 俳論集、2001年、小学館、pp.578-80

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原文
師の思ふ筋にわが心を一つになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門をゆくと心得顔にして、私の道行く事あり。門人よく己を押し直すべき所なり。
 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ。」と師の詞のありしも、私意をはなれよといふ事なり。この習へといふ所を己がままにとりて、終に習はざるなり。

 習へといふは、物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句と成る所なり。たとへ物あらはにいひ出でても、その物より自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情誠に至らず。私意のなす作意なり。

 ただ、師の心を常にさとりて、心を高くなし、その足下に戻りて俳諧すべし。師の心をわりなく探れば、その色香わが心の匂ひとなり、うつるなり。詮議せざれば、探るにまた私意あり。詮議穿鑿、責むるものは、暫くも私意にはなるる道あり。ただ、おこたらず詮議穿鑿すべし。是を専用の事として、名を地ごしらへといふ。風友の中の名目とす。

現代語訳
芭蕉先生が求められた高い詩精神を自分のものとして求める努力をしないで、先生が求められたところを自分勝手に解釈して、同じ道を行く門人であると得意になって、我流の俳諧をすることがある。門人ならば、よくよく自省してそのようなことがないように努めなくてはいけない。

 芭蕉先生の言葉に「松のことは松に習うのがよい、竹のことは竹に習うのがよい」というのがあるが、この言葉は、詠もうとする対象に対する自分勝手な把握からの脱却の大切さを教えたものである。普通は、対象から無心に学ぶということをせずに、自分流に理解することによって、学んだ気になって終ってしまうことがあるのである。

 対象から無心に学ぶということは、対象と向き合い、対象に没入することによって、対象の微細な特徴が顕現してくる、そのことへの感動が自然に一句に形象化される過程における対象把握の方法をいうのである。たとえ対象の特徴を過剰なまでに一句として表現し得たとしても、対象から自然に受けた感動の形象化でないときは、一句の中で、対象と作者とが分裂してしまっており、そこに作者の作句したことに対するある種の感動があったとしても、それは誠の感動ではないので、その作品は、自分流に作り上げられた作意の句ということになる。

 我々門人は、ただただ芭蕉先生の心をいつも理解すべく努めて、詩精神を高く保持しつつも、自らの日常卑近な対象を見据えての俳諧をするのがよい。芭蕉先生の詩精神を無心に探究するならば、それが自然と自分のものになり、句に反映するのである。きちんとした探求をしなければ、そこにまた勝手な理解が入り込んでしまう。きちんと探求し、自らの詩精神を鍛練すれば、少しの間でも私意から離れることができるのである。とにかく努力して、先生の詩精神をきちんと探求しなければならない。このことが俳諧における第一義であり、この私意からの脱却を「地ごしらえ」と呼ぶのである。俳諧仲間での呼称である。

編者注釈
私意からいかにして脱却すべきか、が蕉門の人々の大きな課題だったことが分かる。芭蕉、そして蕉門の人々が求めていたのは、物我一如の俳諧だったのである。そこに障害として横たわるのが私意である。

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2026年1月25日 (日)

Tokugawa Japan’s “Spiritual Safety Net”: The Historical Significance of Funeral Buddhism

0. Introduction

The term “funeral Buddhism” is usually used in a critical sense. It suggests that Buddhism deviated from its original aim of liberation or enlightenment and degenerated into a mere provider of mortuary services. There is some truth in this view. As symbolized by ordination and tonsure, Buddhism has a strong tendency to relativize this world and to detach itself from worldly attachments.

However, when examined as a historical phenomenon within Tokugawa Japan, funeral Buddhism appears to have had a significance that cannot be dismissed as mere degeneration or vulgarization. I would rather suggest that it is more productive to reinterpret it as a “spiritual safety net” within Japanese society. From this perspective, funeral Buddhism offers an important key to understanding the mentalities of the Tokugawa period.

1. The Explosive Growth of Temples and the “Spontaneous Emergence” of Institutions

The parishioner system (danka seido) and the head–branch temple system (honmatsu seido) are often explained, in conventional accounts, as institutions created by the Tokugawa shogunate after the policy of national seclusion in order to control religion. It is undeniable that the shogunate made political use of these systems. Nevertheless, there is one crucial fact that deserves attention.

According to Masahide Bitō’s A History of Japanese Culture (Iwanami Shinsho, 2000), as much as 80 percent of private temples had already been established by Kan’ei 20 (1643), shortly after the beginning of national seclusion (p.129).

This figure suggests that the usual picture of institutional origins may be reversed. Rather than being artificial mechanisms created from scratch by political authority, the parishioner and head–branch systems seem to have grown organically within society itself. The shogunate then appropriated these already existing structures and repurposed them as tools of governance.

The Tokugawa regime did indeed seek religious control. Yet the raw material for such control had already taken shape within society. Seen in this light, this pattern accords well with a characteristic feature of Tokugawa governance: ruling a vast population not primarily through force, but by “riding on” preexisting forms of autonomy and intermediary organizations.

2. Why Funeral Rites Were Historically Groundbreaking

Bitō frankly acknowledges that the transformation of temples into institutions primarily responsible for funerals and memorial services could be regarded as a deviation from the original spirit of Buddhism. Yet immediately afterward, he introduces a crucial reversal of perspective.

Japanese Buddhism, which took shape in the fifteenth and sixteenth centuries, may differ in character from its Indian or Chinese counterparts. Still, the fact that everyone came to receive a Buddhist funeral after death represented a radical change compared to earlier times, and one that carried profound significance for people’s spiritual lives (Bitō, pp.129–130).

What deserves emphasis here is that funeral Buddhism provided not merely ritual, but psychological infrastructure.

If one could believe that, upon death, one would receive a Buddhist funeral—whether invoking Amida Buddha or Śākyamuni Buddha, regardless of sect—and be sent off to the Buddha’s realm according to an established procedure, that belief itself constituted a powerful source of reassurance. And it is precisely such reassurance that makes sustained engagement with everyday social life possible.

This, I suggest, is a key to understanding Tokugawa mentalities. Rather than viewing funeral Buddhism merely as an instrument of governance, its deeper significance lies in the fact that, as a religious system operated by local communities, it offered a form of care: a widely distributed, minimum guarantee addressing the ultimate anxiety common to all humans—death itself. In short, it assured people that “upon death, one becomes a hotoke (a Buddha), and anyone may go to the other world.”

In a society still haunted by the memories of the violent Sengoku era, where death was omnipresent, such a spiritual safety net was not optional; it was indispensable. This is precisely what I mean by calling funeral Buddhism a “spiritual safety net.”

3. The Implication of “Original Enlightenment” Becoming Reality

Bitō goes further, stating that “in this sense, Tendai doctrines of original enlightenment (hongaku) became a reality” (pp.129–130).

Without entering into technical detail, the essential point is this: the idea that human beings are originally Buddhas was not realized merely as an abstract doctrine, but was concretely implemented through the everyday practices of postmortem ritual among common people.

I view this as one mode of maturity in Tokugawa society. Ideas did not remain at an abstract or elite level, but were woven into the fabric of everyday life. Moreover, this integration extended beyond ruling elites to the broad mass of the population. From a civilizational perspective, this represents a rather distinctive historical configuration.

4. Buddhist Names and “Hotoke”: The Equalization of Death

Another concrete element illustrating the significance of funeral Buddhism is the bestowal of posthumous Buddhist names (kaimyō). Originally, such names were granted to ordained monks upon receiving the precepts, a ceremony of central importance in Buddhism, as exemplified by figures such as Jianzhen (Ganjin) or Saichō. In Japan, however, the practice shifted toward granting precepts—and thus Buddhist names—to anyone at death.

Bitō interprets this as a means of guiding the deceased onto the Buddhist path and regards it as a distinctive feature of Japanese Buddhism. He also suggests that the custom of referring to the dead as hotoke may have emerged during this period (pp.129–130).

I would describe this transformation as a form of posthumous equalization. However stark social inequalities may have been in life, death subjected everyone to a standardized religious procedure by which they were treated as Buddhas. Differences in funeral scale or the prestige of posthumous names certainly persisted, but the existence of a shared narrative concerning the destination of the dead was of immense significance.

5. What Anti-Buddhist Movements Reveal

Let us now consider a reverse perspective. In the late Tokugawa period, anti-Buddhist arguments repeatedly surfaced, culminating in the violent separation of Shinto and Buddhism and the destruction of Buddhist institutions (haibutsu kishaku) in the early Meiji years. As Yoshio Yasumaru showed in The Meiji Restoration of the Gods (Iwanami Shinsho, 1979), this was not a mere byproduct of “civilization and enlightenment,” but a massive reorganization of religious life accompanied by the suppression of folk beliefs.

The intensity of these anti-Buddhist movements itself reveals something crucial. What required such persistent and aggressive destruction must have been deeply embedded in society. Institutions without deep roots do not provoke such relentless efforts at eradication.

In other words, before becoming a tool of governance, funeral Buddhism had already constituted the foundation of popular spiritual life, a matter of everyday common sense, and a practical technology of reassurance.

6. Conclusion

From the standpoint of Buddhist doctrine, funeral Buddhism can be labeled a deviation. Yet when viewed from within the historical reality of Tokugawa Japan, it can also be seen as having fulfilled roles precisely because of that deviation.

The universal inclusion of the dead through ritual; the shared narrative in which the deceased become hotoke, receive Buddhist names, and are sent to the Buddha’s realm—these practices functioned as a spiritual safety net that supported everyday life in Japanese society.

Equally important is the likelihood that this system was not imposed from above, but emerged organically within society itself, with the shogunate subsequently connecting it to political administration. Here, we glimpse a governing posture characteristic of the Tokugawa state: relying on intermediary bodies, entrusting much to local autonomy, and intervening only when necessary.

By reinterpreting the historical significance of funeral Buddhism in this way, we may gain a clearer view of the mental world of Tokugawa Japan, as well as of the profound spiritual rupture that accompanied the transition to modernity—symbolized by the violent separation of Shinto and Buddhism and the destruction of Buddhist institutions.

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2026年1月24日 (土)

徳川日本の「霊魂のセーフティーネット」――葬式仏教の歴史的意義

0.はじめに

「葬式仏教」という言葉は、たいてい批判の文脈で用いられます。仏教が本来めざした解脱や悟りから逸脱し、死者儀礼の業者になった、というわけです。たしかに、その言い分には一理あります。出家・剃髪が象徴するように、仏教には、現世を相対化し、世界への執着を離れようとする強い傾きがあるからです。

しかし、徳川日本を検討する素材として見たとき、「葬式仏教」は単なる堕落や堕俗として片づけられない歴史的意味を持っていたように思われます。むしろ私は、これを列島社会における「霊魂のセーフティーネット」として捉え直すほうが、徳川期の心性史を見通すうえで生産的ではないか、と考えています。

1.寺院の爆発的増加と、制度の「自然発生」

檀家制度や本末寺制度について、通説では、江戸幕府が鎖国以後の宗教統制のために作った制度だと説明されがちです。もちろん、幕府がそれを政治的に利用したことは疑いありません。ただし、ここで一つ重要な事実があります。

尾藤正英『日本文化の歴史』(岩波新書、2000年)によれば、民間寺院の八〇%が、鎖国直後の寛永二〇年(1643)までに成立している、というのです(同書p.129)。

この数字が示唆するのは、制度の起源の見取り図が、私たちの想像と逆かもしれない、ということです。つまり、檀家制度や本末寺制度は、権力がゼロから造形した「人為の装置」ではなく、すでに社会の側で自然発生的に成立しつつあった仕組みを、幕府が事後的に統治手段として転用した、という順序です。

徳川政権は、宗教統制を狙った。けれども、統制の素材そのものが、すでに社会の側で出来上がりつつあった。そう考えると、徳川国家の統治のあり方――つまり、既存の自治や中間団体の仕組みに「乗る」ことで巨大な人口を、武力とは別の手法で統治しようとする志向――と平仄が合います。

2.なぜ「葬式」が画期的だったのか

尾藤氏は、「寺院が死者のための葬式や法要を主たる任務とするようになったこと」は、仏教本来の精神から見れば逸脱と見られうる、と率直に述べています。ところがその直後に、非常に重要な逆転が提示されます。

十五~十六世紀に成立した日本の仏教は、インドや中国とは性格を異にするかもしれない。しかし、すべての人が死後に葬式をしてもらえるようになったというのは、それ以前に比べれば画期的な変化であり、人々の精神生活の上に重要な意味を持っていたのではないか、というのです(尾藤、同書pp.129-130)。

ここで見ておきたいのは、葬式仏教が提供したものが、単なる儀礼ではなく、心理的なインフラだった、という点です。

死ねば仏式の葬式をしてもらえる。阿弥陀仏であれ釈迦仏であれ、宗派が異なっても、一定の作法で「仏の世界」に送り届けてもらえる。そう信じられるなら、個人にとって、これほどの安心はありません。そして、その安心感に支えられてこそ、現実の社会生活は充実しうる。

私はこの部分を、徳川社会の心性を読み解く鍵として受け取っています。つまり、葬式仏教が民を統治する手段の一つ、とだけ評するのではなく、葬式仏教のより重要な意味は、共同体が運用する宗教制度として、身分を問わず人間に訪れる「死」という最終不安に対して、「死ねばホトケとなり、誰でもあの世にいける」最低限の保証を広く配ったケアの仕組みであったということなのです。

常に「死」と向き合わざるを得なかった「戦国」の世の余燼未だ冷めやらぬ当時の世相には、それはどうしても必要なものだった。これが、葬式仏教は「霊魂のセーフティーネット」であった、の意図です。

3.「天台本覚論」が現実化した、という含意

尾藤氏はさらに踏み込み、「そのような形において天台本覚論が現実のものになったともいえよう」と述べています(同書pp.129-130)。

専門的な説明をここで長々とはしませんが、要点だけ言えば、「本来すでに仏である」という含意を持つような観念が、抽象理論としてではなく、庶民の死後儀礼の実務を通して、社会の現実に下ろされた、という見立てです。

これを私は、徳川社会の成熟の一つの様式として眺めています。思想が「高所」にあるだけではなく、生活の制度に織り込まれていく。しかもそれが、支配層だけでなく、広範な庶民にまで届く形で定着する。これは文明史的に見ても、かなり特異な現象ではないでしょうか。

4.戒名と「ホトケ」――死後の平等化

もう一点、葬式仏教の意味を具体的に示す要素として、戒名があります。戒名は本来、受戒した僧に授けられる名であり、受戒が仏教において重要な儀式であったことは、鑑真や最澄の例を思い起こせばよく分かります。ところが日本では、死ねば誰にでも戒が授けられる、という方向に転換していった。

尾藤氏は、そこに「死者を仏道に導き入れる意味」を見ており、その点に日本仏教の特色が現れていると言います。また、死者を「ホトケ」と呼ぶ習慣も、このころから始まった風習ではないか、と述べています(同書pp.129-130)。

この一連の変化は、私は「死後の平等化」と呼びたくなります。生前の身分差がいかに厳しくとも、死後には一定の宗教的手続きによって「仏」として扱われる。もちろん、戒名の格差や葬儀の規模の差は現実には存在します。しかし、それでもなお、「死後の行き先」について最低限の物語が共有されることの意味は大きいはずです。

5.排仏論と廃仏毀釈が露わにしたもの

ここで一つ、逆照射をしておきます。近世後期に排仏論が繰り返し現れ、さらに維新期初期に神仏分離と廃仏毀釈が激烈に展開したことは周知のとおりです。安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979年)が描いたように、それは単なる文明開化の添え物ではなく、人々の宗教生活の改編であり、民俗信仰の抑圧を伴う、巨大な精神史的事件でした。

私がここで言いたいのは、排仏論や廃仏毀釈の激しさそのものが、裏側で、葬式仏教がどれほど深く社会に浸透していたかを示してしまっている、ということです。社会の深部に根を張っていないものは、ここまで執拗に破壊される必要がありません。

つまり、葬式仏教とは、徳川社会の「統治の道具」であった以前に、民衆の精神生活の基盤であり、生活世界の常識であり、安心の技術だったのだと思います。

6.むすび

葬式仏教を、仏教本来の理念から見て「逸脱」と呼ぶことはできます。しかし、徳川日本という歴史的現実の内部から見たとき、それは「逸脱」したからこそ果たしえた役割を持っていた、とも言えます。

すべての人が死後に儀礼によって包摂されること。死者が「ホトケ」と呼ばれ、戒が授けられ、仏の世界へ送られるという物語が共有されること。これは、列島社会における霊魂のセーフティーネットとして機能し、現世の生活を支える土台になっていたのではないでしょうか。

そして重要なのは、この仕組みが、権力が上から作ったというより、社会の側で自然発生的に形成され、幕府はそれを政治的に接続して利用した、という可能性です。徳川国家の統治の特徴――中間団体に乗り、自治に委ね、必要なときだけ介入する――とも、通底する統治の「構え」がそこに仄見えます。

葬式仏教の歴史的意義を、このように捉え直すことで、徳川日本の心性史、そして近代移行期における精神的断絶(神仏分離・廃仏毀釈の衝撃)の輪郭も、少し別の角度から見えてくるのではないかと思います。

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2025年5月19日 (月)

Warum wende ich mich der Geschichte zu?

Es gibt zwei Gründe, warum ich mich der Geschichte und der Methodologie der Geschichtswissenschaft so stark verpflichtet fühle.

※Dieser Artikel ist eine deutsche Übersetzung des folgenden japanischen Artikels.
なぜ私は歴史を志向するのか/ Why Do I Turn to History?: 本に溺れたい

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Why Do I Turn to History?

There are two reasons why I am so committed to history and the methodology of historiography.

※This article is an English translation of the following Japanese article.
なぜ私は歴史を志向するのか/ Why Do I Turn to History?: 本に溺れたい

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2025年5月 9日 (金)

徳川日本のモダニティ史:徳川日本260年をアブダクション史学で再構成する

以下の叙述は、以前の記事のリメイクです。註などを含む詳細は、元記事(リンク)をご参照頂ければ幸甚。

 

〔徳川日本のモダニティ史①〕「刀狩りはPKOである

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2025年5月 8日 (木)

Versöhnt mit dem Schicksal / Nakamura Shinichirō

中村真一郎(新潮社写真部)

Sein sanftmütiger und vornehmer Charakter wurde zu einer Begabung, selbst in Zeiten der Niederlage kleine Freuden des Alltags zu entdecken. Selbst während seiner unglücklichsten Zeit in Yanagawa tritt diese Eigenschaft in der Serie der „Acht Ansichten“ zutage, in der er mit warmem Blick das Leben der Bäuerinnen und Bauern seines Lehens schildert. Das lehrt uns, dass dieser Mann ein weiser Mensch war, der zu jeder Zeit wusste, wie man sich mit dem Schicksal versöhnt und stets eine bejahende Haltung zum Leben bewahrte.
Aus Das Leben des Kakizaki Hakkyō“, Shinchosha, 1989, S. 662.

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Bitte beachten Sie
 乙箇吐壹(イコトイ):夷酋列像 (1790年)/蠣崎波響: 本に溺れたい 



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At Peace with Fate / Nakamura Shinichirō

中村真一郎(新潮社写真部)

His gentle and refined nature became a talent for discovering small joys even amid adversity. Even during his most unfortunate period in Yanagawa, this quality is conveyed to us through a warm gaze cast upon the lives of the farming men and women depicted in his Eight Views series. It teaches us that this man was a wise person who, at all times, knew how to reconcile himself with fate and consistently maintained an affirmative attitude toward life.
FromThe Life of Kakizaki Hakkyō, Shinchosha, 1989, p. 662.

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※Please refer to
 乙箇吐壹(イコトイ):夷酋列像 (1790年)/蠣崎波響: 本に溺れたい

 

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2025年4月30日 (水)

What Hindered the Capitalization of “Tokugawa Japan” (Feb 6, 2010)

In capitalism, what speaks is money. However, we rarely hear the term Moneyism, unlike Capitalism. This suggests that what is truly decisive in capitalism is not merely money, but capital.

How about the market economy, then? This is an economy of exchange mediated by money—essentially, a system in which various goods and resources are bought and sold.

Here, one is reminded of Fernand Braudel’s three-layer model:

Capitalism
Market economy
Material Life

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